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No.0133
てんのはしごあまのはしだて
天のはしご天の橋立
高ヒット
放送回:0081-B  放送日:1977年04月23日(昭和52年04月23日)
演出:高橋良輔  文芸:沖島勲  美術:本田幸雄  作画:岩崎治彦
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あらすじ

平安時代の話。

和泉式部(いずみしきぶ)は夫とともに丹後の国に赴任していた。そのころ宮中では歌会が開かれており、不在の母、和泉式部に代わって娘の小式部内侍(こしきぶないじ)が出席していた。

列席者の一人が、小式部内侍に母からの便りがあったかどうか尋ねると、小式部内侍は、母からの便りはまだないが、丹後の天の橋立については聞いていると答えた。御簾の中でこれを耳にされた帝(みかど)は、天の橋立の由来について小式部内侍にお聞かせになった。

昔々、まだ日本が出来て間もないころ、天上の神様たちは眼下の日本列島をご覧になり、大変よくできた、美しい国だと思われた。こうなると、地上に降りてみたくなるのが人情、いや神様のお気持ち。それで、神様の中でも一等偉い大神さまに頼んで、地上に降りるはしごを架けてもらうことにした。

大神さまは、「本当に必要な時にだけ使うこと。」という条件をつけて地上に降りるはしごをお作りになった。神様たちは喜んで下界に降りて行くと、そこには既にたくさんの人々が神様が降りてくるのを待っていた。そして地上では、神様たちを囲んでの飲めや歌えの大騒ぎになった。そこで神様たちは、きれいな娘たちに天上の世界を見てみたいとせがまれた。

神様たちはこれを断りきれず、大神さまにみつからないように静かにすることと娘たちに言い、一緒にはしごを上って行った。ところが娘たちは、はしごの上から眺める下界の美しさに大きな声で「ワー!!きれい。」と口々に言ったので、これが大神さまに見つかってしまい、はしごは大神さまの怒りにふれて粉々に砕け散ってしまった。そして、そのはしごの一部が今の宮津湾に架かり、天の橋立になったということだ。

小式部内侍はこれを聞いて、おかしな話だと思ったが、ここで一首詠んだ。
「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」
天の橋立を巧に詠みこんだこの歌は、会場の喝采を浴びた。

(投稿者: やっさん 投稿日時 2011-6-17 17:29 )


ナレーション常田富士男
出典二反長半(未来社刊)より
出典詳細京都の民話(日本の民話41),二反長半,未来社,1965年10月10日,原題「天のはしご、天の橋立」,原話「白岩貞吉」
場所について天の橋立
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地図:天の橋立
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※掲載情報は 2011/6/17 20:32 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
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ゲスト  投稿日時 2014/10/13 19:49
というか、多神教の神様はそんなもん>若い娘と酒池肉林
多神教の神様は大体は豊穣を司るものですし
マルコ  投稿日時 2013/6/15 19:36
マルコはこのお話を見て、「これって古典の教科書に載っていた十訓抄の中の小式部内侍の話じゃないか!!」と思いましたね!! 
ちなみに、「十訓抄(じつきんせう)(ジッキンショウ)」の作者は六波羅ニ﨟左衛門(ろくはらにろうざえもん)です。鎌倉時代中期の説話集で、十の教訓の説話を集めているそうです。

小式部内侍の母は当時の有名な歌人であった和泉式部。「和泉式部日記」の作者としても、数々の男性との恋多き女性として知られていますね。

あらざらむ この世の外の 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな

この和歌を知っている方も多いのでは?

当時、小式部内侍が歌が上手なのは、この母親の代作ではないかと疑われることもあったようです。
それでは、十訓抄の中の小式部内侍の話をお話しましょう・・・。

平安中期のことです。 和泉式部が藤原保昌の妻として丹後に下っていたころ、 京で歌合せがありました。 歌合せには和泉式部の娘の小式部内侍が選ばれて、出席しました。 中納言藤原定頼が小式部内侍の部屋の前を通り過ぎるときに、 ふざけて小式部内侍に向かって言いました。
「丹後にいる母のもとへ和歌を取りに使わした人は帰って参りましたか?」
そう言って、藤原定頼はそのまま部屋の前を通り過ぎて行こうとしました。 それは、母の力を借りなければ歌合せは無理でしょう、という嫌味でした。 小式部内侍は、簾すだれより体を半分のり出して定頼の袖を引き止めて、 歌を詠みかけました。
「大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天の橋立」

大江山を超えて行く生野の道は遠い道のりですから 私は、まだ天の橋立を踏んでいません。
歌合せに、母の文(力)を借りる必要はありません という意味

定頼は、小式部内侍がこれほどの素晴らしい歌をすぐさま詠もうなどとは 予想もしていなかったので驚いてしまいました。
「これは何としたことだ。こんなことがあろうか?」
定頼は、思わず口走ってしまいました。 そして返歌をすることもできず、捕まれていた袖を引っ張りとって、 その場から逃げ去りました。 それから、小式部内侍は素晴らしい歌人だという評判が世間に広まりました。 このようなことは、出会うべくして出会った運であるが、 定頼は、想像もしていなかったことでしょう。

昔ばなしと十訓抄の中の小式部内侍の話の違いはというと、
「昔ばなしでは小式部内侍に母からの便りがあったかどうか尋ねた人は、定頼だかわからない。」
「十訓抄の中のでは帝は登場しておらず、小式部内侍に天の橋立の由来を話してはいない。」
「小式部内侍は帝から天の橋立の由来を聴いて和歌を詠んだわけではない。」

生野と行くと掛け、さらに「踏みもみず」と「文も見ず」を掛けた和歌。これを即興で詠むことで、小式部内侍は、これまでの歌が全部自分の才能であり、歌が上手なのは、母親の代作だという噂はデタラメであることをずばりと証明してみせたのです。

小式部内侍かっこいい!!でも・・・万寿2年、藤原公成の子(頼忍阿闍梨)を出産した際に20代で死去し、周囲を嘆かせたそうです。なんか悲しいですね・・・。

やっさん  投稿日時 2011/6/18 15:10
人間くさい神様です(笑)
beniko  投稿日時 2011/6/17 21:17
か、神様が若い娘と酒池肉林・・・。
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