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No.1052
おたぬきりきし
おタヌキ力士

放送回:0664-A  放送日:1988年08月27日(昭和63年08月27日)
演出:こはなわためお  文芸:沖島勲  美術:青木稔  作画:小堤一明
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あらすじ

むかしむかし、奈良の曽我村というところに北林という豪家がありました。この屋敷の広い森にはタヌキの一家が住んでいるという噂がありました。

ある日、北林の家に待望の初孫が生まれました。この家の主人は初孫の誕生を大変喜びました。主人は初孫の誕生を祝ってたくさんの赤飯を作り村中の家に配り歩き、屋敷では宴会が開かれました。ところが赤飯を多く作りすぎたので、赤飯を鍋に移して蓋をしておきました。

その夜更け。皆が寝静まった頃、主人が目を覚ましました。すると、なにやら台所のほうで物音がするのです。主人が眠たい目をこすりながら台所のほうに向かい、そっと戸を開けてみたらタヌキの一家が、鍋の蓋を取って余った赤飯を食べていました。ほっとする反面、主人はタヌキ一家があわれでなりません。きっと食べ物に困ってのことだろうと。

次の晩から、主人はタヌキ一家のために食べ物を用意してあげました。翌朝にはすっかりなくなっていました。

さて、ある晩のことでした。屋敷に泥棒が押し入り、家の者を叩き起こし、金を出せと脅しました。一家はただ、ガタガタブルブルふるえるばかりでした。そのときです。天を突くような大きな力士が、どしどし入ってきました。そして、泥棒に大声で怒鳴りつけました。
「人の家に勝手に押し入って金を脅し取るとはなんて奴だ!」「さっさと出ていけ!」

その力士の迫力に泥棒は一目散に逃げ出しました。一家は、あっけにとられましたが、我に返り力士にお礼をのべながら頭を下げました。そして頭をあげると力士の姿はありませんでした。

ひと騒動のあと、やっと床に就いた主人を呼ぶ声が聞こえ目を覚ますと、あのタヌキの夫婦がいました。タヌキの夫婦は「いつも食べ物をありがとうございます。今夜のことは、ほんの御恩返しでございます」と言って森へ帰って行きました。

主人は気づきました。あのとき一家の窮地を救ってくれた力士の正体はあのタヌキの夫婦だったと。それからというもの、北林の家ではタヌキを大事にし、タヌキ一家も北林の家に末永く住み続けたそうです。

(投稿者: ビアンカ  投稿日時 2013-1-17 20:18)


ナレーション市原悦子
出典奈良のむかし話(日本標準刊)より
出典詳細奈良のむかし話(各県のむかし話),奈良のむかし話研究会,日本標準,1977年09月01日,原題「おタヌキ力士」,再話「矢井田朝夫」,大和の伝説
場所について橿原市曽我町(地図は適当)
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地図:橿原市曽我町(地図は適当)
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※掲載情報は 2013/1/18 9:18 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
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ゲスト  投稿日時 2017/9/24 13:06
おタヌキ力士 又は タヌキの恩返しといいます。
今も橿原市曽我町590番地にその名残の蔵があります。
蔵の鬼瓦はタヌキでできています。
ゲスト  投稿日時 2016/3/26 17:47
真菅村(ますげむら)はかつて奈良県にあった村。現在の橿原市西部にあたる。村名の由来は柿本人麻呂が詠んだ「真菅よし 宗我の河原に鳴く千鳥 間無しわが背子 わが戀ふらくは」に因む。「真菅」の読みはますげ、ますがに分かれており、前出の歌もどちらで詠んでいたのか説が分かれている。橿原市立真菅小学校は前者、近鉄大阪線の真菅駅と橿原市立真菅北小学校は後者の読みを採っている。

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により高市郡土橋村、中曽司村、北妙法寺村、地黄村、曽我村、五井村、寺田村、慈明寺村、大谷村、小槻村が合併し、真菅村が発足。
1956年(昭和31年)2月11日 - 高市郡今井町・八木町・畝傍町・鴨公村、磯城郡耳成村と合併し橿原市を設置して消滅。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%8F%85%E6%9D%91
ゲスト  投稿日時 2016/3/26 17:32
曽我町の歴史
古くは弥生中期の遺跡群の中にあり、半世紀前頃までは田畑に土器片や石器が見られました。
曽我の地名は8代孝元天皇の曾孫に当たる武内宿禰(タケウチノスクネ)の第三子・石川宿禰が“蘇我(そが)“の姓を頂いてこの地に住み着いたのが由来とされます。曽我町の西北にある宗我坐宗我都比古神社(ソガニマスソガツヒコジンジャ)は蘇我石川宿禰夫妻を祀る神社で、石川宿禰より第5世の蘇我馬子(~626年)の頃、推古天皇の御世に創建※1されたと伝えられています。時は飛鳥時代でその頃の曽我集落はこの神社近く或いはもう少し北側(北曽我と言う条理地図名あり)が中心だと考えられます。
曽我は蘇我氏発祥の地であり、蘇我氏宗家は乙巳の変(645年)での入鹿の死によって滅亡しましたが、宗我坐宗我都比古神社の宗我座講中各家やその縁戚は蘇我氏の子孫で、今に至っています。
また、蘇我氏と有縁であった聖徳太子を追善して伽藍(大楽寺)とその四方に守護寺(南専寺⇒光専寺、東楽寺、西養寺 他)が建立されましたが乙巳の変の時に焼失し、後に曽我の村民により再建され※2、下記4寺へと続いていてます。
飛鳥時代を経て中世以降、竹之内峠から八木、桜井、初瀬を通る伊勢街道沿いに次第に曽我の集落の中心が南の方へと移って行きました。 
江戸時代には曽我は城主の居る城下ではなく、江戸に居を構える旗本・多賀氏(2,000石、内曽我はその内1,300石)が治め、その陣屋が今の陣屋会館のところにあり、代官が居て公事を務めていました※3。
当時は街道往来の賑わいと併せ、王寺から大和川-大坂に通じる曽我川の水上交通も盛んで、豊津橋(大橋)のところには船着き場、旅館があり、その東の街道沿い(曽我のメインストリート)には食事処や店も並んでいたと伝えられています。
また、「曽我3百軒」と云われ、農村としては大きな集落であり、神社が二社(上記神社、天高市神社)、お寺が四山(光専寺、光岩院、東楽寺、西養寺)を擁し、商工業も盛んで油屋、桶屋、畳屋、瓦屋、建具屋、髪結い、米屋、綿屋、木綿屋、紺屋、うどん屋、鍛冶屋、等々多数のお店や職人が居たといわれています※3。
明治以降、鉄道交通(旧国鉄)と経済発展と共に商工業や人々の生活も徐々に変わって行きますが、終戦(昭和20年)後、目覚ましい日本の経済発展と共に近鉄真菅駅、八木駅から大阪への通勤圏として昭和30年以降、曽我町周辺も住宅と人口の爆発的な増加となり、今日に至っています。
市町村の経緯としては、大和国(和州)高市郡曽我村から明治になり周辺地域との幾度かの地域割変遷を経て、明治22年4月奈良県高市郡真菅村字曽我、そして昭和31年2月11日橿原市曽我町となり、現在に至っています※3。
〔参考資料〕
※1:宗我坐宗我都比古神社由緒書、高市郡神社誌(大正11年9月22日発行)
※2:紫雲山光専寺由緒沿革
※3:橿原市史(昭和37年5月15日発行)
http://sogacho.com/?page_id=5
ゲスト  投稿日時 2016/3/26 17:13
北林の名称がありました。

北林ハイツ1号館
橿原市曽我町927
(中井整形外科クリニックの東側)
タヌキさん一家が住み着いた 曽我村の豪農 北林家 は、このあたりでしょうか?

こんなのもあります⇒「曽我町自治体ホームページ」http://sogacho.com/
ゲスト  投稿日時 2016/3/21 23:26
『もちの白鳥』に出てくる主人は
自分のことしか考えないバカ主人だけど
こちらの主人は家族のみならず
動物にも優しくて寛容な主人ですね。
ゲスト  投稿日時 2016/1/26 8:19
いい話ですね。おタヌキはん可愛いです。
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