江の島弁天 についてのコメント&レビュー投稿
昔、薩摩には夏になると、必ず鱶九郎(ふかくろう)という人攫い(ひとさらい)が来ていた。本拠地は分からず、四国の宇和島と言う者もいれば、瀬戸内海の因島と言う者もいた。 薩摩はた...…全文を見る

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投稿者:mikan 投稿日時 2013/9/4 16:28
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こんにちは。ご労作を楽しく拝読しております。

「江ノ島の弁天様」といえば、関東の人間は神奈川県藤沢市の江ノ島を思い出してしまいますが、鹿児島のお話なのですね。関係あるのかな?
今度、藤沢の江ノ島にいったら、由来など書いてないか確かめてみたいです。
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投稿者:トモメル 投稿日時 2014/4/24 15:08
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紅子さま、いつも楽しく拝見しております 感謝です

垂水市の江の島ですが、下記サイトにありましたのを、転載します
http://www.osumi.or.jp/sakata/bunkazai/kugyuisi.html

大隅史跡探訪 江ノ島と公卿石 2013年12月04日 (垂水市)

江ノ島は垂水市海潟の200mの沖の鹿児島湾に浮かぶ周囲1km,最高点63mの無人島である。桜島の雄姿を背景にした景勝地で、かつての昭和30年・40年代の高度成長期にはキャンプ場となっており、対岸の海潟温泉とともに観光客で賑わっていた。江ノ島を望む和光保育園裏手に江ノ島の名の由来となった「公卿石」が文化財として保存されている。江ノ島は元は弁天島と呼ばれていたが今から420年前(1593年頃)前に近衛関白信輔(のぶすけ)公が荘園巡視したとき、この地を訪れこの絶景を見て「桜島は冨士の山を望むがごとく弁天島は鎌倉の江の島に似たり」と絶賛したという。それから弁天島を江ノ島と呼ぶようになったが、そのとき信輔公が腰掛けて眺めた石がこの「公卿石」だと伝えられる。、は「公卿石(くげいし)」とよばれている。

備考:近衛信輔(1565~1614年)は、安土桃山時代の公家で近衛前久(さきひさ)の嫡男として誕生。元服した際に織田信長から一字を貰い信基(のぶもと)と名乗り、のちに、信尹(のぶただ)、信輔と称し、号を三貎院(さんみゃくいん)ともいう。文禄3(1594)年に豊臣秀吉と対立して坊津に配流され、二年ほどして許され、帰る途中にここに立ち寄ったという。当時下大隅(垂水)は近衛家の荘園だった関係で島津と近衛家は近い関係にあった。
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投稿者:夾竹桃 投稿日時 2018/7/12 0:52
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もしよければ、あらすじに使ってください。よろしくお願いします。

人攫いの船から女達を救出した不思議な娘の話
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投稿者:夾竹桃 投稿日時 2018/7/12 6:10
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追伸が重複してしまったようで、すみません。
ありがとうごさいます!
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