名郷→白岩→鳥首峠→冠岩→川俣、大日堂→他
旧名栗村、名郷
周囲には古い材木商や、趣のある板塀の旧家など、いつ来ても落ち着いた集落の雰囲気が特徴で、時代に荒らされない景観を好ましく思います。辻は山伏峠を越えてきた道と、妻坂峠を越えてきた旧鎌倉街道山之辺の道、そしてこれから越える鳥首峠の道が交わるところで、この地方の産業を支えてきた木材や炭焼きの炭俵が集積して様々な生活資材とが商いされてたのです。辻に建つ馬頭観音。
アーネスト・サトウ
資料として読んでいた「峠 秩父への道」大久根茂著、に興味深い記述が有りましたので概要を紹介します。江戸末期、英国から通訳として来日し活躍したアーネスト・サトウは、その旅日記に名郷に宿泊したとあります。彼は旅が好きで、1週間ほど掛けて原市場から天神峠と仁田山峠を越えて名栗川を遡り、名郷に宿泊、妻坂を越えて秩父から三峰に詣で、雁坂を越えて甲州路を旅したそうです。
妻坂を越える道は大宮道と云われ、山伏峠を越える道が秩父往還だったと書かれ、博労に託した荷駄は山伏峠を越え、サトウは徒歩で妻坂を越えて秩父で待ち合わせしたそうで、直線的な妻坂峠越えの方が時間は短かったと観察しています。その妻坂の分岐にはサトウが越えた当時から在った石の道標が今も建ち、「右大みや」と書かれているのです。
廃屋と化した白岩の集落
昭和三十年頃には二十一軒の家が暮らし、山を訪れるハイカーへは土産物屋も在ったとか。薪炭から化石エネルギーに変わり、山は建築用材の植林に変わると住人も職を失って山を降りて久しく、残った家屋も柱は傾き、軒は崩れかけています。最後まで残って暮らしたのでしょうか戸板に神林と書かれた家屋だけは、手入れがされて今にも住人が出てきそうで、近くの叢の墓石にもその名が刻まれ、哀れさを感じてしまいます。
白岩の岩峰
見上げれば、集落の北側に白岩の岩峰が紺碧の空に突き出るように聳え立ち、白さを輝かせているのがとても印象的です。白さを見れば「白岩」地名の謂れとなったことも一目瞭然です。
鳥首峠
大山祇命(オオヤマツミノミコト)と背面に幣(ぬさ)が貼り付けられた小さな祠が祀られていて、そっと旅の無事を祈願して手向けを忘れません。書物によれば以前には鳥居が建っていたそうで、それとなく地面を観察すれば、朽ちたその柱跡だけが名残を留めます。武甲山をご神体として奉っていたので、周囲にはこのような祠が多いのでしょう。
眺望は植林された樹木に阻まれて利きません。以前この辺りではブナの木が多く、峠には太い3本の古木があったそうです。しかし、心無いハイカーが樹木に傷を付けた為に、樹皮が剥がれ枯れてしまったとか。この山でも炭焼きから自然林の良さに気がつかぬまま杉や檜の植林に変わり、建築用木材の価格暴落から手が入らなくなって山が荒れています。
鳥首峠と地域の関わりは山伏峠、妻坂峠と比較すると936mと最も標高が高く、秩父へ向うならば遠回りとなる事から、参詣路にはもっぱら830mの妻坂峠が使われ、荷駄を運ぶには604mと最も低い山伏峠を通ったのでしょうから、鳥首峠は参詣、商業、運搬などには使われなかったのでしょう。
それらを裏付けるように、峠の両側にある白岩、冠岩の集落も隠れ里のように存在し、落武者の伝説なども伝わる事から、峠の活用性としては、せいぜい炭焼きの俵を背負って名郷へ運び出し、生活資材を調達したりするのに使われたり、年に1度の大日堂のお祭りに名郷から出かける程度の利用性だったと考えられ、開発の手から逃れる事ができたのでしょう。
冠岩(かむりいわ)集落
今では廃屋ばかりとなってしまった冠岩の集落に住んでいた人達は、全て上林姓で、白岩の神林家から出たそうです。冠岩の地蔵と板碑。
大日堂の獅子舞
川俣の大日堂は下って行った沢の淵にあり、日原から仙元峠を越えて来た径の出口にあたります。日頃殆んど人影も無い山奥のお堂には、祭礼を祝う奉納の白い幟が立ち、臨時に屋台や売店なども出来て大勢の人達が集まってきて賑やかです。毎年10月中旬に行う獅子舞の奉納。
不思議なのは大日堂です。大日堂には普通大日如来が祀られるので仏教です。 しかし、獅子舞を奉納するのに注連縄を張って幣(ヌサ)でお払いをする?神仏混淆でカタチが出来ているようです。気がつけば幟も神社風でお堂は方行のお寺風です。尤も大日如来は天照大神と同格になり、元はといえば太陽神?
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kyukaidou-tougemichi/torikubi-touge.htm