「孝行娘」の伯耆守名和顕孝 (なわあきたか)ってどんな人? 

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昔、熊本県の宇土(うと)という町に、お静という親孝行な娘がおった。お静は病気がちの母親を助け、茶店を営んでいた。 その頃の宇土の殿様である、なわほうきのかみ あきたか(名...…全文を見る

「孝行娘」の伯耆守名和顕孝 (なわあきたか)ってどんな人? 

投稿者:マルコ 投稿日時 2014/3/29 12:15
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このお話に登場する世間知らずの若殿様は名和顕孝だそうです。

この人物ってどんな人か気になったので調べてみました。

名和顕孝 なわあきたか 1560~1608
肥後の国人。官途は左兵衛尉。別に伯耆顕孝とも。長良と号す。肥後宇土城主。大友氏の耳川大敗により、1579年に島津氏に降伏し、1580年島津氏が網田を攻略すると顕孝に与えられた。1581年の水俣合戦では顕孝が仲介に立って島津・相良両氏を和睦させている。同年龍造寺氏が肥後に侵攻すると一時これに降るが、翌年には島津氏に再び属す。九州征伐により、1587年開城して降伏した。肥後一揆の際は秀吉に召還されて大坂にいたため没領は免れたが、1588年筑前に移封され、小早川隆景に属した。息子長興は立花宗茂に仕え、子孫は伯耆氏(建武中興に活躍した伯耆の名和長年に因む)を称し、明治に至り男爵を与えられた。
顕孝は元寇の際の記録として有名な「蒙古襲来絵詞」を所蔵し、娘が大矢野種基に嫁いだとき、大矢野氏に贈った。種基の先祖大矢野種保は竹崎季長とともに元と戦った武者である。

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