Re: 旦願寺の狸和尚

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安芸・備後の民話 第一集(未来社,1959年11月25日)に、同タイトル名のお話があり「このお話かもしれない」ということであらすじを書いてみます。 むかし、山陽道の四日市(賀茂郡西...…全文を見る

Re: 旦願寺の狸和尚

投稿者:旦願寺の狸和尚 投稿日時 2013/11/23 20:42
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旦願寺の狸和尚の話で、旦過寺の推定がされていますが、旦願寺=旦過寺で合っています。

只、MAPで、ポイントが打ってありますが、ここは、愛郷廟という、神道の施設です。 現在、旦過寺は、地図上では御建グラウンド中心で対角上の位置にあります。ちなみに、現在直ぐ下方に新しく広い道路がつくられています。この道路は、推定ですが、古代と中世の山陽道の位置になります。 実際に発掘で中世の山陽道跡が発見されました。

秀吉が、この旦過寺に泊まっていますが、山陽道から少し上った小高い位置に寺は有り、見晴らしもよく、警備しやすく宿泊地には適していたでしょう。ただ、現在 御建神社は、塔の岡という地名の所にあるのですが、旦過寺が、このあたり一体であったのかもしれません。現在の旦過寺は観音菩薩の小堂がのこされています。観音菩薩石造の土台には文化6年(1809)とあります。

物語に出てくる旦願寺というのは、旦過寺(たんかじ)というのを「たんがんじ」と、地の人たちが呼んだところから旦願寺の漢字があてられたと思います。
地元、東広島市西条町では、今も「旦過寺が、観音菩薩の小堂」として存在しています。
土地の小字にも塔ノ岡というものがあることから、旦過寺の塔が建っていたのかもしれません。

この「旦過寺」というのは、日本全国に存在します。この寺の役目とは全国を修行して旅する修行僧の一夜の宿として利用されています。
寺の名前「旦過」とは、「旦」は、日の出を表し、「過」は、過ぎていくことを表します。一夜を過ごしたら、翌朝には修行に旅立つという意味の「旦過」なのです。

この旦過寺は、一様に当時の大きな道に沿って建てられていました。当時は江戸時代のように一般の旅人が、旅行をするという風習はなく、朝廷の役目を担った官人か、修行僧くらいのものです。あとは、都に税金を納める民くらいのものですが。

古代山陽道(平城京と九州の大宰府を結ぶ、奈良時代の幅約10mの大道です)が、最短コースで造られていました。平城京から大宰府に命令を伝える役目の伝令は、「駅鈴」という鈴のようなものを振り鳴らしながら、馬に乗って古代山陽道をひた走ります。各地の「駅家(駅家)」は、伝令が、馬を乗り継ぐ為の施設です。一般の民の利用はできません。中世になると朝廷の力も衰え、大道も民が勝手に自分の畑や、墓や御堂のようなものが建てられていき、幅も狭くなり一部では、その存在すら消滅します。

辛うじて中世山陽道が馬や荷車が通れる幅、2~3m位になって存在します。この西条の旦過寺は古代山陽道沿いに建てられ、中世になっても中世山陽道が同じルートで存在していたので、存在していたのです。古代においては、初期の安芸国府が置かれた地で、安芸国分寺も存在しています。安芸国では重要な地であるのです。

実際に中世山陽道が発掘され、その位置的に、秀吉が九州の島津を征伐(天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月)に行った山陽道沿いの旦過寺に宿泊したという記録に残されています。この旦過寺を毛利に命じて宿泊所として整備させています。

中世山陽道という兵站路に設けられた兵站地であったわけです。一緒に動いた兵が野営できる場所が必要です。また、島津家久が天正3年(1575年)伊勢参りをするため、上洛する際に、西條四日市へ入り坂道から、正面に白山城が見えたと記録にあります。当時は高い建物も無く、坂道を馬に乗って遥か向こうに白山城が良く見えている当時の山城は、防備の為樹木が生えていませんので、城の櫓や柵などが良く見えていたことでしょう。

この二つの内容からこの発掘された道こそ、戦国時代の山陽道であるという結論になったのです。

旦過寺の和尚に化けた狸の民話は今に伝えられ、酒都西条の酒まつりのマスコットとして、信楽焼きの酒徳利をもった狸の焼き物と合わさって、「のん太」君が誕生したのでした。民話は今も生きていて旦過寺の狸和尚は愛され続けています。
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