Re: 筆捨ての松

筆捨ての松 についてのコメント&レビュー投稿
昔、巨勢金岡(こせのかなおか)という絵描きの名人がいた。 ある日、熊野へ那智の滝(なちのたき)を写生するために旅に出た。その途中、藤白峠(ふじしろとうげ)で、7.8歳く...…全文を見る

Re: 筆捨ての松

投稿者:マルコ 投稿日時 2013/8/25 13:20
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丹後の伝説27より引用

えかきの金岡さん
赤野の中世集団墓
平の力男
きつねがり(舞鶴市平)
大きなわらぞうり(舞鶴市平)
へきこ与平(舞鶴市平)
八幡神社(舞鶴市平)
惣兵衛ビワと吐月水
カラス島
蛇島
を収録

えかきの金岡さん   (赤野)

 多称寺村をあがるところに赤野村がある。平村の北にあたる。延徳二年(一四九○年)河辺村半済方御年貢米銭納帳写(西大浦村誌)に
  赤野村二十三貫三百十八文
     二十一石六升二勺五才
とあり、彦左衛門、赤野弾右衛門の名が記されている。河辺村のなかでは最も貢租を負担していた豊かな村である。

 当村には、平安時代初期の絵師巨勢の金岡の屋敷跡があると伝えられる。旧語集は「当村巨勢金岡屋敷跡あり、伝云姓は巨勢宮大納言無位階自然至+秦丹青妙学呉道子筆法及精仏像、仁和四年九月五日賜詔、宇多帝画賢聖之図和国之名筆也」と設す。

 大正から昭和にかけて郷土史家の山本さんの記録によると、金岡墳塚の石棺が、多称寺中腹の「じょうどじ」山という緩やかな傾斜地にあり、上中下三段の台地がある。ここが金岡寺の旧趾である。四、五尺もあろうかという礎石があり、屋敷地は石崖を廻らし平面図としてみれば香爐形をなす、巨勢金岡が画面に用いた落款印形どおりの二脈香爐形と一致する。金岡の死没年代がはっきりしていない。この石棺の調査がまたれる。

 金岡は貞観年中(八五九年)神泉範の長官であった。平安時代の中期ごろから唐絵がおとろえ、日本固有の画風がおこってきた。この和様の絵を大和絵といっているが、この始祖が金岡だといわれている。松尾寺の寺宝とし国の文化財に指定されている「普賢延命像」「孔雀明王像」は金岡の筆であり、元慶四年京都御所紫宸殿の障子に「聖賢の障子」といわれるのを画いたのも残っている。

 「筆捨松」の話。平安初期、風景や風俗画に新様式を開いた宮廷絵師、巨勢の金岡が、熊野詣での途中、峠の枝ぶりのよい松に腰をかけ写生をしていた。そこへ一人の童がでてきて「どちらが上手か、競争しよう」と持ちかけた。どちらもうまくて甲乙決めがたい。そこで童は、描いた鳥をとび立たせると、金岡もウグイスを飛びたたせた。さらに童が手をたたくと、鳥は絵にもどったが、ウグイスは帰ってこない。金岡はくやしくなり、絵筆を松の根元に投げすててしまった。その童こそ、熊野権現の化身で、おごった金岡をいましめるためにやってきたのだという。この話は土地の人たちの教訓となって今だに残っている。村人は近くに石碑を建て、二代目の松を植え大切にしている。
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