「鵜飼いものがたり」は能の「鵜飼」と関係が深いみたいですよ~!!
投稿者:マルコ 投稿日時 2013/1/18 22:15
能”の「鵜飼」は、ここ石和の鵜飼山遠妙寺が発祥の地らしいですよ~!!
江戸時代の娯楽と云えば、歌舞伎、浄瑠璃、能、浮世絵などがあり、その題材として人気があったものの中に、「日蓮もの」があったようです!!
詳しくはわかりませんが、能の「鵜飼」はその「日蓮もの」で、大評判を呼んだ舞台であったようです。五番目もの、鬼もの、太鼓ものに分類され、禁漁の罪を犯したために殺された漁師の悲劇と、その鵜飼の業の見事さ、そして法華経による救済を描く、旅僧が石和を訪れることから始まる物語のようです。
謡曲「鵜飼」のあらすじ・・・。ウィキペディアより。
安房の国清澄出身の僧(ワキ)が、従僧(ワキヅレ)を伴い、甲斐国石和を訪れる。一行は、所の男(アイ)に教えられて、川辺の御堂で一晩を過ごすことにするが、その夜、松明を持った鵜飼の老人(前シテ)が姿を見せる。話すうちに従僧が、かつてこの地を旅した時、よく似た鵜使いの老人に一宿一般の恩を受けたことを思い出すと、その老人は「その鵜使いは後に、禁漁の石和川で鵜を使って漁をしたため、村人たちの処刑にあい、簀巻きにされて川に沈められて殺されました」と語り、実は自分こそがその死んだ亡霊なのだと名乗る。老人は僧の求めに応じて、懺悔のため、かつての鵜飼の業を披露する。その面白さに、老人は殺生の罪を忘れて酔いしれるが、やがて闇の中に姿を消す。改めて、所の男から事情を聴いた僧たちは、河原の石に一字づつ「法華経」の経文を書き、それを川に沈めて鵜使いの老人を供養する。するとそこに、地獄の鬼(後シテ)が現れ、鵜使いが無事に成仏を遂げたこと、そしてそれを可能にした「法華経」の有り難さを称えて舞う。・・・というあらすじです。
この石和郷に伝わる伝説では、その僧侶が、出身が安房国清澄であること、向かう先が甲斐国石和であることから、身延山久遠寺を開いた日蓮上人をモデルとして作られていると言われています。また、従僧は鵜飼山遠妙寺に伝わる日朗、日向上人、そして鵜飼の老人は、鵜飼山遠妙寺で弔われている鵜飼勘作翁といわれ、まさに、日蓮上人実名の伝説は、謡曲「鵜飼」のあらすじ通りに伝えられているのです。
余談ですが、なぜ、日蓮上人の名が謡曲には出てこないのか?ということについて、「高僧の効力より、広く仏教の功徳を説こうとしたため」という説が有力のよう。
尚、舞台となった石和川は現在は笛吹川と呼ばれ、かつては、鵜飼川の名もあった。現笛吹市石和の「鵜飼山遠妙寺」には、鵜飼漁翁勘作という漁師が日蓮に救われたという能と同様の伝承、また勘作を祀る御堂があって、毎年9月16日に川施餓鬼が行われている。この時期に”薪能”があるらしいので、一度観たいと思っています。
また、【甲斐名勝志=江戸時代萩原元克著】によれば、この地に落ちて来たといわれる平時忠をモデルにした同様の話が伝わっていて、即ち、鵜飼勘助は落人で名を変えた平時忠であったとする話もあるのです。
石和に伝わる平時忠(鵜飼漁翁勘作)伝説・・・、笛吹市観光商工課パンフレットによる
鵜飼勘作とは、元の名を平大納言時忠といい、平清盛の北の方ニ位殿の弟。平家が壇ノ浦の戦いで滅亡した時、時忠が三種の神器の一つ「神鏡を朝廷へ奉還したことが認められ、一命を助けられて、能登の国へ流罪された。しかし時忠にとって、この地は安住の地ではなく、能登を脱出、遠く甲斐の国へ逃れて来て、この石和郷に住みついたと伝わる。公家時代の遊びで覚えた「鵜飼」業とするようになって、ある日、南北十八丁三里の間殺生禁止になっていた当時の「法城山観音寺」の寺領を流れる「石和川」で漁をしたのが見つかって、村人に捕えられ、簀巻きにして岩落としの水底に沈められて処刑された。以来、亡霊になって昼夜苦しんでいたところ、巡教行脚の日蓮上人の法力お蔭で成仏得脱できた。・・・という話です。