芋ほり長者夫妻の木像があるようです・・・。

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むかし、加賀の里に芋掘り藤五郎という男おって、そりゃあ貧乏で大酒のみでな、山に入っては芋を掘り、それを酒に換えて暮らしておった。 ある日、見たこともないような立派な嫁入...…全文を見る

芋ほり長者夫妻の木像があるようです・・・。

投稿者:マルコ 投稿日時 2013/1/1 19:31
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石川県にある伏見寺に芋掘り藤五郎夫妻の木造があるみたいです!!
伏見寺の由来を紹介します!!

伏見寺の創建は不詳ですが行基が自ら阿弥陀如来座像(国指定重要文化財)を彫りこみ安置したのが始まりと伝えられています。当初は石川郡山科村にありましたが、元和元年(1615)に快存和尚が現在地に移しています。又、伏見寺は金沢の地名の起こりとなった藤五郎縁の寺としても知られています。伝承によると「 山科伏見に芋掘りを生業としていた藤五郎が霊夢により京都の美しい娘と結婚しました。娘の実家から砂金が送られてきても、藤五郎は何の興味もしめさないことから嫁が尋ねると、藤五郎はこんなものは芋掘りをするといくらでも出てくると言いました。夫婦は砂金の付いた芋を現在の兼六園にある霊水で洗ったところから金沢の地名が起こったと云われています。」

ついでに、「藤五郎神社」の由来も書き込んでおきます。役に立つといいのですが・・・。

藤五郎神社は昭和六年四月、山科青年団の一部の人達が、山科神社にあった碑をここに移し、小祠の祭神とした。近年老朽化が目立ち始めいたので昭和六十三年六月(1988)社殿、鳥居、灯籠、狛犬、手洗い、玉垣等全てを新しく造営した。

鍬かけの松は芋掘り藤五郎ゆかりの伝承で、藤五郎がその松の枝に鍬をかけて一服したと言い伝えられていた老松(おいまつ)三本がこの辺りにあったのだが、明治二十五年ごろ根の下に黄金があると噂が広がり、人々が掘りおこしたため明治三十七年頃枯れ、その松で十三個の米搗臼(こめつきうす)を作り、山科村の旧家に保存していたが、内1個を昭和六十二年四月一日、石川県立歴史博物館に搬入、保管展示されている。神社右手の鍬かけの松は二代目である。

学問好きの加賀藩十三代藩主・前田斉泰(まえだなりやす)は、学者の津田鳳卿(つだほうけい=加賀金沢藩士・藩校明倫堂の助教)に命じ、鋳物師採鉱者によって言い伝えられていた炭焼き長者の話をもとに説話を作らせた。それが兼六園西の隅にある宝形造り四阿の下清水が湧きでている金城霊澤(きんじょうれいたく)〔一説には金洗澤(かなあらいさわ)とも〕の碑文である。

奈良時代初期、養老の頃(716~717)、山科村・枝村(えだむら=親村に対する出村)の伏見村(伏見の里)に山芋を掘り生計をたてていた藤五郎という若者が住んでいた。一方大和の国初瀬の里、萬の長者・生玉右近萬信(一説には生玉方信)は観音様に祈願して、娘の和五(一説には和子とも)を授かりし後、夢枕にたった観音さまが「娘和五の婿となる者は加賀の国山科伏見の里の藤五郎である」と告げられ、遥々この地を訪ね詳細を説明して執拗に懇願、二人は夫婦になったのである。藤五郎は邪欲なく澄んだ目で茫洋として奢らず、近郷の村人に金銀を分け与え人望もあり、後地頭になったとか。藤五郎が山芋を洗ったと言われるのが兼六園内西の隅にある金城霊澤(一説には金洗澤)で水底に砂金がキラキラ光り輝いたと言い伝えられており、それから現在の「金城霊澤」という地名がつけられたとされている。

この辺りには芋掘り藤五郎ゆかりの伝承が実在している。尚藤五郎夫婦を葬ったとされている二五塚(一説には二子塚)は大乗寺の裏から西へ約一八〇米にあり、そこを昔は寺地山と言った。塚発掘の際出土した剣等は寺町五丁目の藤五郎ゆかりの伏見寺に保存されている。
 
平成元年六月吉日
   日本民俗学会・加能民俗の会 本光他雅雄
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