むかし、上狩野の旧家の主に菊三郎という人がいました。悪さはしないが、怠け者の役立たず。のらりくらりと自然を愛でる暮らしをした挙げ句、日々を借金取りの催促に追われるというありさまでした。
そこで、菊三郎は、山を売るにあたって、山へと出かけていきました。道すがら、崖を落ちた菊次郎は谷川の川床に。川床は美しく、辺りにはカジカが鳴き、その静かな風情に菊次郎はウトウトとしました。
その時、誰か菊三郎を叩く者があり、見ると不思議な老人が立っていました。老人は「菊三郎殿、わしはこの河鹿沢のカジカの頭領じゃが、今、そ なたが売ろうとしている河鹿沢のある山をなにとぞ売らないでもらいたい。売り渡されれば、木は伐られ、谷は日照りに乾き、川床は濁り水に押し流されてしまう。そうなれば、我々カジカは住むことができなくなってしまう」
なるほどと菊三郎は思いました。老人は「お願いじゃ」と言い、菊三郎はハッと我に返りました。老人の姿はすでに消えていましたが、菊三郎は「分かりましたよ、頭領」といい、帰ると、土蔵の中の書画骨董、あらゆるものを金に換え、どうにか河鹿沢を人手に渡さずに済んだ時、家の中に残ったものは売り物にもならない白い枕屏風の一曲だけでした。その夜、涼しい風の吹きぬける中で、菊三郎は眠りに就きました。
カジカの鳴きしきる声に取り囲まれた夢うつつの中、菊三郎が目を覚ますと、縁側から枕元にかけて、点々と水つく足跡が続き、白い枕屏風の面には、いつの間にか、カジカが谷間に戯れている絵が、墨の色も生々しく、生き生きと描かれてありました。カジカの群れ遊ぶ図は、観る者の心に、不思議な感 動を与えました。
河鹿屏風の噂は、人から人へと伝わり、都から下ってきた高名な絵師は、この屏風の絵を見て感嘆の声を上 げました。千両箱を携え、屏風を請うてくる者もありました。しかし、菊三郎はこの屏風を決して手放しませんでした。そして、この屏風を売らない程度に、菊三郎は仕事に精を出すようになりました。
やがて長い月日が経ち、菊三郎は老いて亡くなりました。不思議なことに、その日からカジカの屏風も次第に色が失せ始め、何年間かすると、絵はとうとう消えてしまったそうです。
俗に、河鹿沢という浄蓮の滝の上方、渓流にやや川床のひらけたあたり、今でも鳴きしくカジカの声を耳にすることができるそうです。
(投稿者: araya 投稿日時 2012-1-14 4:18)
ナレーション | 市原悦子 |
出典 | (表記なし) |
出典詳細 | 伊豆の民話(岸なみ,未来社)。採録地は湯ヶ島。舞台は上狩野。原題は「河鹿の屏風」 |
場所について | カジカ沢(地図は適当) |
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