トップページ >  お話データベース >  東北地方 >  秋田県 >  白ごろもの坊さま
No.0755
しろごろものぼうさま
白ごろもの坊さま

放送回:0475-A  放送日:1984年12月22日(昭和59年12月22日)
演出:若林常夫  文芸:沖島勲  美術:青木稔  作画:若林常夫
秋田県 ) 7274hit
あらすじ

あるところに、きこりの夫婦が住んでいた。 夫婦には12人の子ども達がいて、貧しいながらも仲良く暮らしていた。

ある日のこと、おっとうが木を切りたおしたとき、運悪く下敷きになって死んでしまう。 残されたおっかあはなんとか子ども達を養おうと一生懸命働くが、手に入るのは少量の芋や団子ばかりだった。もちろん子ども達の腹はいっぱいにはならないが、子ども達はそれを分け合ってたべ、おっかあには「こんなに食べれば十分だよ」と、心配かけまいとしていた。

冬になり、ますます食べ物が手に入りづらくなり、おっかあは、家にあるものを何でも売ってその日その日をなんとか過ごしていた。

ある吹雪の日、夕方が過ぎ夜になってもおっかあは帰ってこなかった。 おっかあは、家に帰る途中の雪の中で凍えて死んでいた。 そのことを知らないで泣く子ども達だったが、ふと気が付くと家の入り口に白ごろもの坊様が立っていた。

坊様は、泣いて言う子ども達をなだめると、何処からか取り出した飯を長い箸を使って子ども達に食べさせた。箸を子どもの口に運ぶたびに坊様は 「これはおっとうから、これはおっかあから」と、やさしく言った。

その日から、坊様が夜になると飯を食べさせにきてくれたので、子ども達は飢え死にしなくてすんだそうだ。

(引用/まんが日本昔ばなし大辞典)


ナレーション常田富士男
出典秋田県の民話(偕成社刊)より
出典詳細秋田県の民話(ふるさとの民話29),日本児童文学者協会,偕成社,1981年11月,原題「おだいしこふぶき」,採録地「仙北郡」,再話「加藤秀」
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • このページを印刷
追加情報
このお話の評価9.5000 9.50 (投票数 18) ⇒投票する
※掲載情報は 2011/2/11 22:30 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
お話の移動 ( 32  件):   <前  1 ..  13  14  15  16  17  18  19  .. 32  次>  
コメント一覧
7件表示 (全7件)
ゲスト  投稿日時 2017/3/25 4:39
悲しい話だけど、これが親の側にとっては救いだったんじゃないかな?
寒さや飢えで可愛い盛りの子供を失ったら、親としちゃいつまでも嘆くだろう。
もっとお腹いっぱい食べさせてあげたかった…あったかい着物買ってやれば…せめてもっといいお薬買えたなら…子供の死亡率が高いとはいえ、もっと何かしてあげられなかったかといつまでも後悔しきりだよ。
せめて毎日お供えしているご飯を、仏様が持って行ってくれて、子供にお腹いっぱい食べさせてあげていると思えば、少しは心が救われるだろう。

長い箸で食べさせるって表現も、仏教のお話とリンクしてるし。(あの世では天国も地獄も長ーーい箸でご飯を食べるが、地獄では無理やり自分の口に運ぼうとするからうまく食べられずいつもお腹空いてる。天国ではお互いに食べさせあっているから、みんなお腹いっぱいって話。)
どんな形であれ、子供に幸せに暮らしてほしいって親の願いが込められてる話だと思うと、どれだけ時代が変わっても人間の感情って変わらないんだなって思うよ。
華煌  投稿日時 2016/7/15 21:51
確かにゲストさんのおっしゃる通り、子どもたちの方が彼岸に行っていて、
お地蔵さまから父母の思いを食べ物として頂いている。というのが、
お話としてしっくり来ますね。目からウロコでした。
子どもたちの年齢もそれで説明がつきます。
それにしても悲しい物語ですね。
ゲスト  投稿日時 2015/10/31 19:50
まあ、昔話は比喩表現も多いし、現実的に考えたらあかんて。

雪国の真冬の吹雪じゃ、いつ誰が死んだかなんてわからないし。山手に住んでたらそりゃ、仕事行ったきり帰ってこないって家庭もよくあったんだろうよ。そして、子どもも大人になる前に亡くなることも多かっただろうし。
12人も兄弟がいたら上の子は12歳にはなってるはず…なのに、どの子も小さいままというのも不思議な話。

ある意味、飢えや寒さで亡くなった子どもたちが、子どもの守り神である仏様やお地蔵さまのもとで、毎日親からの思いを受け取って飢えることなく暮らすって世界をせめてもの救いに昔話にしたのかもよ。

現実的すぎること言わずに、昔の人の救いや願いを形にしたと思えばいいじゃないか。
ゲスト  投稿日時 2014/11/9 3:17
情報時代の今でさえ、他所の家で人が死んで子供が残されても気が付かないことが多く、ニュースで餓死した子供が…ってニュースを時折見る。
もしも、この子供達に親が死んだことを教えるような人間がいるなら、もう少しなんとかなってた気もする。でも、そうじゃなかったのは、そんな人はいない、あるいはいても見ないふりをしてたと思われる。
ミミリン  投稿日時 2014/11/6 5:51
ソフィーさんに同意。というか腹すかせて
泣いているだけしか能のない子供達だから
養子になるしかないんでしょうけど・・・
この時代では苦労するでしょうね。
いっそあのまま飢えと寒さの中で凍え死に
していた方がよかったのかも
「チロリン橋」や「雪むかし」とか見ていると
兄弟仲良く凍死していた方が幸せだったんじゃないか
というのが私個人の感想です。
トモメル  投稿日時 2014/9/22 18:07
スーちゃんの妖怪通信 弘法大師と石芋と(秋田県 仙北郡美郷町 [旧千畑町] )
より抜粋
http://www.rg-youkai.com/tales/ja/05_akita/15_isiimo.html

空海自身が全国各地に伝わるこれらの奇跡・・・同工異曲の感もあるが・・・
を起こしたとしたら、 徒歩で旅する平安時代であるから、
かの松尾芭蕉も裸足で逃げるほどの驚くべき長い旅程をこなしたことになる。
至るところに出没なさった、といっても過言ではない。
いくら超人だといっても昔、こんな旅が可能だっただろうか。

ことに空海は、仏門の指導者として高野山で道場を開いていたし、著書も「三教指帰」「性霊集」「文教秘府論」等、多く著している。 実に多忙な身なのである。

福島県の「安達が原の鬼婆」を取材した時、鬼婆をやっつけるのは、笈[おい]を背中にしょった 紀州熊野からきた旅の修行僧だという説明を聞いた。
当時、高野山由来の高野聖[ひじり]が、修行や説法のために遊行僧となって諸国を巡っていたという。彼ら遊行僧は弘法大師の影武者として、手足となって、活躍したのではないか。

平安時代に「われは、弘法大師なるぞ」と言って、祈祷したり病気をなおしたり、雨を呼んだりした場合、これがにせの弘法大師だったとしても、確かめる方法はない。
遊行僧の方は、尊崇する“弘法大師さま気分”を味わい、里人から敬われれば、苦労は報われたはず。素朴な里人は、それが誰であっても、事績を起こしたことは事実だから有難くもったいない思いで満たされただろう。
ゾフィー  投稿日時 2013/4/8 21:54
遅かれ早かれ母親の死の報せは
子供たちの耳に入ってくることでしょう。
おそらく子供たちは子供のいない家庭や
親戚の家の養子になり一家離散は
時間の問題でしょうね。
投稿ツリー
7件表示 (全7件)
新しくコメントをつける

題名:
ユーザ名:
投稿本文

投稿に関してのお知らせ

基本的に、誰でもご自由に投稿できます。お話の感想やコメントなどお気軽に投稿ください。
あらすじ投稿の場合は800文字前後を目安とした文章でお願いします。
投稿に対して一部IP規制を行っております。現在規制されているIPリストはこちらです。
※初めての方は「このサイトについて」もご一読下さい。(別ウインドウで開く)
※社会的倫理に反する書き込み、出会い系、営業的書き込みは、わりとすぐ消します。
※動画提供の呼びかけや要求はご遠慮ください、当サイトは動画データの有無とは関係ございません。

現地関連情報
出典本調査 facebook
Twitter

オンライン状況

41 人のユーザが現在オンラインです。 (34 人のユーザが お話データベース を参照しています。)

新着コメント(コメント24件)