No.0558
おかげまいり
おかげ参り

放送回:0349-A  放送日:1982年07月10日(昭和57年07月10日)
演出:森川信英  文芸:沖島勲  美術:小出英男  作画:森川信英
三重県 ) 6766hit
二人と一匹、おかげ参り

昔、阿波の徳島の呉服屋にお千代という年頃の一人娘がいた。お千代は「おさん」という変わった顔をした子犬を飼っていた。その隣の染物屋に与七という跡取り息子がいた。与七はお千代を好いていた。

その年は60年に一度のお伊勢さんのおかげ参りの年だった。お千代は御札が欲しくて与七をおかげ参りに誘った。こうして与七、お千代、おさんの三人でおかげ参りに出かけることになった。お千代とおさんは物珍しくて旅を楽しんでいたが、与七は歩くのも犬も嫌いだったので憂鬱だった。

そのうち旅で浮かれたお千代は、色々な物を食べすぎてしまい、お腹をこわしてしまった。旅がつづけられなくなったお千代は、「このかんざしを私と思ってお参りに行ってちょうだい」と与七に頼んだ。与七は行きたくなかったが、おさんに嗾けられて大阪へ、そして伊勢へ向かった。

途中で与七は野良犬の群れに襲われそうになったが、そこにおさんが現れた。するとおさんの顔があまりに可笑しかったのか、野良犬の群れはおさんを見て笑い出した。そして驚いたことに、野良犬の群れはおさんに付き従うようになったのだ。野良犬の群れは与七の乗った荷台を押し、おさんを先頭にお伊勢さんに到着した。

子犬が野良犬を従えるのを見たおかげ参りの人々は驚き、これもお伊勢さんのおかげじゃと囃した。

与七は無事おかげ参りをすませ、お伊勢さんの御札を手に入れた。国に帰った与七はお千代と夫婦になり、店も一緒にして商売は大繁盛した。これもひとえにおさんのおかげじゃという話じゃ。

(投稿者: hiro 投稿日時 2012-1-14 19:29 )


参考URL(1)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E8%94%AD%E5%8F%82%E3%82%8A
ナレーション市原悦子
出典三重県
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※掲載情報は 2012/1/14 20:43 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
5件表示 (全5件)
ゲスト  投稿日時 2015/10/30 17:58
■巡礼のオチヨ
足の不自由なオチヨが父と共に半月かけて願いを込めて地蔵尊を彫り上げ、その慈悲でオチヨの願いがかなったという
徳島県板野町の民話伝説
http://furusatotabi.com/story1/itokusimast00.htm
ゲスト  投稿日時 2015/10/30 17:47
阿波藍のはじまり
阿波藍の起源は平安時代、徳島の山岳地帯で阿波忌部(いんべ)氏が織った荒妙(あらたえ)という布を染めるために、栽培が始まったと伝えられています。最古の資料は『見性寺記録』というもので、その中には宝治元年(1247年)に藍住町の見性寺という寺を開基した翠桂(すいけい)和尚が、そのころ寺のあった美馬郡岩倉(現在の美馬市脇町)で藍を栽培して衣を染めたと記されています。その後、藍づくりは吉野川の下流域に広がっていきました。『兵庫北関入船納帳』には、文安2年(1445年)に大量の葉藍が阿波から兵庫の港に荷揚げされたと記録が残っています。
戦国時代の藍づくり
戦国時代には、藍の色の1つである「勝色(かちいろ)」が、勝利につながる呼び名という縁起のよさから、武士のよろい下を藍で染める需要が高まり、ここから藍の生産が本格的に行われるようになったといわれています。そして、それまでは、葉藍を水につけて染め液をつくる沈殿藍で藍染めを行っていましたが、天文18年(1549年)に三好義賢(よしたか)が上方から青屋(あおや)四郎兵衛を呼び寄せ、すくも(藍の葉を発酵させて染料にしたもの)を使った染めの技術とすくもの製法が伝わり、三好氏の城下勝瑞では、すくもづくりが本格的に行われるようになりました。
江戸時代に隆盛を極める
天正13年(1585年)、蜂須賀家政公が藩主となってからは、徳島藩では藍の生産を保護、奨励しましたので、いよいよ藍づくりは隆盛を極めたのでした。徳島の藍は、その品質の高さからも別格扱いとされ、阿波の藍を「本藍」、他の地方の藍を「地藍」と区別されたほどでした。藍づくりを全面的にバックアップした蜂須賀家の力は大きく、一説には蜂須賀公が播州から入国した際に藍を持ってきたと伝えられています。そして、徳島藩は、藍師や藍商から取り立てる租税で藩の財政を確立し、“阿波25万石、藍50万石”とまでいわれるほどになりました。元禄時代には、全国的に木綿が多く生産され、それにともなって阿波藍も大量に生産されるようになり、その作付け面積は、寛政2年(1790年)に6,500町歩(ちょうぶ)もあったという記録が残っています。 ※ 1町歩=約3,000坪
そして今も愛される藍
明治以降も藍作は盛んに行われ、北海道から九州まで栽培されるようになり、全国的には明治36年に最高の生産規模になりました。特に徳島県は作付面積、生産量とも全国の過半数を占めていました。 しかし、その後、インドから良質で安価なインド藍が輸入され始め、明治後期からは化学合成された人造藍の輸入が急速に増大し、日本の藍づくりは衰退の一途をたどりました。 徳島県でも昭和41年には4ヘクタールにまで栽培が減少してしまいましたが、阿波藍の魅力は人々を引きつけて止むことはありませんでした。そして、天然藍の持つ美しさや風合いが見直され、藍は全国的にも静かなブームとなっています。
藍のふるさと
洪水地帯で育った藍は粉にし、乾燥させ発酵させた後で、自然に固まった“すくも”という藍染めの染料となります。この“すくも”は、吉野川の水運によって、江戸や大阪、名古屋などへ出荷されました。うだつで有名な脇町※などは、藍問屋の蔵が建ち並び、阿波藍の集散地として繁栄したのです。そして現在、全国で使われる“すくも”のほとんどは徳島で作られており、まさに徳島は「藍のふるさと」と言えます。
http://www.awanavi.jp/feature/awaai.html
ゲスト  投稿日時 2015/10/30 17:39
阿波十郎兵衛屋敷-徳島市河内町-
 ・・・ふるさとを、はるばるここに紀三井寺、花の都も近くなるら
ん。巡礼に御報謝と、いうも柔しき国訛・・・・
阿波十郎兵衛屋敷  阿波で祖母にあずけられ、生き別れになった浪人十郎兵衛とお弓の子お鶴は、親を尋ね西国巡礼の旅に出るのだった。

10段続きの「傾城阿波の鳴門」の第8段目の「巡礼歌の段」(お弓とお鶴の出逢いの場面)は、情感をくすぐる場面として私たちの記憶のなかに生きている。
http://www.h4.dion.ne.jp/~toso504/renkei/sikoku/Sikoku-Kentikubutu-tokusima4.html

江戸時代には阿波から、西国巡礼やお伊勢参り 等への巡礼がとても流行していたようです。
ゲスト  投稿日時 2015/10/30 17:26
旅と祈りの道─ 阿波の巡礼 ─
阿波の歴史における巡礼といえば、四国遍路を思い起こすことが多いでしょうが、阿波から西国や坂東、秩父の観音霊場巡礼、六十六部廻国巡礼などの旅も行われていました。また、観光を兼ねて、伊勢や高野山などへの参詣も行われました。
 こうした阿波の巡礼の多様な側面をとらえながら、歴史の中の道と人との関わりについて考えてみます。
●展示構成 1 巡礼の広がり─ 四国遍路といろいろな巡礼 ─
 2 村と四国遍路 3 複合する巡礼行動 4 霊場参詣の諸相 
徳島県立博物館・鳴門教育大学
http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/kikakuten/2006/sp_junrei/index.html
ゲスト  投稿日時 2015/10/30 17:17
子犬おさん 超可愛いス
ほのぼのいい話ですね。
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