昔、紀州の山奥に弥九郎という名の猟師が母親と二人で暮していた。ある春の朝、弥九郎が家の戸を開けると、そこには一匹の子犬がいた。
あれは昨年の秋のことだった。弥九郎が夜中に山を歩いていると、深手を負ったオオカミに出くわしのだ。弥九郎はこのオオカミに傷の手当をして、「もしこれで助かったなら、今度の春生まれた子を一匹くれろ。」と笑いながら言った。オオカミはこの約束を果たしたのだ。
弥九郎はこの子犬をマンと名付け、厳しく狩の技を仕込んだ。その甲斐があってか、マンは並みの猟犬をはるかにしのぐ優秀な猟犬に成長した。
次の年の初夏のこと。弥九郎は狩の途中、熊の気配を察知して岩陰に隠れていた。ところが、マンはかまわず飛出し大熊の後ろ足に噛みつく。弥九郎はすかさず槍で大熊にとどめを刺した。何と、マンは一撃で大熊の後ろ足の筋を噛み切っていたのだ。このことがあってから、弥九郎とマンの名は紀州一帯に知れ渡った。
その年の冬、殿様にご覧にいれる大掛かりな狩が催された。マンはこの場でも見事に猪を仕留め、弥九郎は殿様からたくさん褒美をもらった。弥九郎は意気揚々と家に帰った。
ところがどうだろう。弥九郎のおっかさんはマンを山に帰せと言うのだ。「人間に飼われたオオカミは、千匹生き物を殺すと、次にはその主人を食い殺す。」弥九郎が家を出掛ける時、読経を頼んだ旅の坊さんが、マンの素性を見抜きこんな恐ろしいことを言ったのだ。そんな話は弥九郎には到底受け入れられない。弥九郎は言う。「マンは俺の犬。マンあっての弥九郎なんや!!」
外にいたマンは人間の言葉を理解したのだろうか。「ウォーン」と一声鳴くと、山の方へと走り去って行く。「マン、帰ってくれー!!」弥九郎は雪の降る中、裸足で家を飛び出しマンの後を追う。マンは振り返り、一度弥九郎の方を見ると、悲しそうにまた山の方へ歩き出した。それ以降、マンが弥九郎のもとに帰ることは二度となかった。
優秀な猟犬として知られる紀州犬は、このお話のマンが祖先だと伝えられている。
(投稿者: やっさん 投稿日時 2012-4-29 14:02)
ナレーション | 市原悦子 |
出典 | 倉田正邦(未来社刊)より |
出典詳細 | 伊勢・志摩の民話(日本の民話31),倉田正邦,未来社,1961年02月28日,原題「弥九郎の犬」,採録地「南牟婁郡」,話者「山本梅三郎」 |
場所について | 三重県熊野市御浜町の阪本地区(地図は適当) |
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