トップページ >  お話データベース >  関東地方 >  茨城県 >  かっぱにもらった宝物
No.1368
かっぱにもらったたからもの
かっぱにもらった宝物
高ヒット
放送回:0868-A  放送日:1992年11月28日(平成04年11月28日)
演出:玉井司  文芸:沖島勲  美術:玉井司  作画:大西治子
茨城県 ) 24368hit
偽の手紙で人喰い河童から思わぬ福を授かる

昔、ある男が町へ買い出しへ行くため茨城は結城の釈迦沼の近くを通りかかった時の事。沼のほとりの茂みの中から小さな子供が現れ、男に八千代村の飯沼にいる者へ手紙を届けて欲しいと頼んできた。

気の良い男は頼まれるまま手紙を受け取ったが、子供は飯沼に着いたら沼の前で三度手を叩くよう男に伝えると消えてしまった。男は何やら薄気味悪く思いながらも、手紙を携え道を急いだ。

すると道で出会った法印様(山伏)が男の顔に死相が現れていると言うので、男は法印様の眼力に圧倒され先程の子供の事を話した。法印様は男から手紙を取り上げ広げてみたが、手紙は白紙で何も書いてはいなかった。

しかし法印様が川のほとりで手紙を浮かべると、「この男はうまそうだから食うようにさしむける」という、カボチャの汁で書かれた字が浮かび上がった。男が会った子供は釈迦沼の河童であり、男は危うく飯沼の河童に食われに行く所だったのである。

男は引き返そうにも釈迦沼の河童に見つかってしまうため逃げる事もできず、法印様に助けを求めた。そこで法印様は男にカボチャの茎を取ってこさせると、茎の汁で手紙を書き換えそれを男に渡した。

男は法印様に感謝し、やがて飯沼に着くと沼の前で三度手を叩いた。すると沼の中から薄気味悪い若者が現れ、若者はまるで手紙の内容を知っていたかのように嬉々と男から手紙を受け取るとこれを読み始めた。

ところが法印様が書き換えた手紙には、「この男は命の恩人だから宝物をお礼にやってくれ」と書かれており、困惑した若者は何回も手紙を読み返すと、男にこの 手紙は本物かと尋ねた。手紙は本物で間違いないと男が言うので、若者は不満そうに懐から石の挽き臼を取り出すと、男の前に放り投げ再び沼の中へ帰っていっ た。

男は挽き臼を家へ持ち帰り早速挽いてみると、米粒がどんどん溢れ出した。こうして河童の挽き臼のおかげで男は毎日米を食べ、豊かな暮らしができるようなったという。

(投稿者: お伽切草  投稿日時 2014-1-3 2:05)


ナレーション常田富士男
出典日向野徳久(未来社刊)より
出典詳細茨城の民話 第二集(日本の民話72),日向野徳久,未来社,1978年12月05日,原題「かっぱにもらった宝物」,採録地「結城郡」,原話「富高武雄」
場所について結城郡八千代町(旧飯沼の場所:地図は適当)
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • このページを印刷
地図:結城郡八千代町(旧飯沼の場所:地図は適当)
追加情報
このお話の評価8.5000 8.50 (投票数 4) ⇒投票する
※掲載情報は 2014/1/3 11:10 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
お話の移動 ( 20  件):   <前  1 ..  14  15  16  17  18  19  20  次>
コメント一覧
2件表示 (全2件)
ゲスト  投稿日時 2016/1/25 21:46
これを見てかぼちゃの茎の汁で文字を書けるのかと思いました。
まあ書けるよねー?
マルコ  投稿日時 2013/11/6 18:16
マルコが江戸時代の文化を勉強していた時に思ったことを書き込みます。
このお話に登場する飯沼の河童の飯沼というのは、歴史の教科書にも登場している飯沼新田の飯沼かもしれません。場所もちょうど八千代町のあたりですし。

新田には色々と種類があります。村請新田、町人請負新田、藩営新田、代官見立新田。
その中で、飯沼新田は村請新田に属しています。
飯沼新田(1725~1727)24の村の湖沼干拓地。とありました。

飯沼新田開発の中心人物に秋葉 左平太さんという人がいるそうです。
出生地 : 八千代町
年~ 1740年 (和暦:年~ 元文5 年)

ゆかりの市町村は古河市, 常総市, 坂東市, 八千代町

飯沼の干拓

江戸時代初期以前の飯沼は、下野国に源を発する江川が流れ込む幅約4km、長さ約2kmの葦の生い茂る湿原で、鬼怒川に流出していました。江戸時代初期の河川改修の後、鬼怒川の河床が上昇し、流れ込む水がせき止められて沼沢地となりました。当時は雨が降って鬼怒川が増水すると、鬼怒川から逆流した水で飯沼は満水となり、周辺の田畑は冠水し、農作物に甚大な被害を与えていました。

享保10年(1725年)になると、井沢弥惣兵衛為永によって飯沼が干拓され、新田開発が行われました。これは、飯沼の中央に飯沼川を開削し、菅生沼を通して利根川に落とす(図3-3)とともに、鬼怒川の水を吉田(下野市)から引いて干拓地にかんがいするという計画でした。

ところが、その導水路は分水と漏水のため飯沼の干拓用水としては役に立ちませんでした。さらに洪水によって上流から運ばれた土砂の堆積や天明3年(1773年)の浅間山の大噴火で降り積もった火山灰によって利根川の河床が上昇してしまいました。その結果、利根川の水が逆流しやすくなり、飯沼干拓地は再び排水不良になり、毎年のように水害を受けるなど、営農上の大きな負担になっていました。利根川の河床は、享保年代から明治30年までの間に3m以上上昇しました。

飯沼新田に流れ込む水を迂回させるために飯沼の周りに掘った西仁連川、東仁連川などの承水路が掘られましたが、排水能力は十分ではありませんでした。

その後、県営事業による昭和4年に幸田排水機場の設置、昭和19年の西仁連川の改修、昭和24年の東仁連川の改修、昭和58年の幸田新排水機場の竣工等を経て美田地帯が成立しました。

もっと詳しいことが知りたい方はこちらへ

http://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/kokuei/kinugawa/kinugawananbu04.html
投稿ツリー
2件表示 (全2件)
現地関連情報
出典本調査 facebook
Twitter

オンライン状況

35 人のユーザが現在オンラインです。 (20 人のユーザが お話データベース を参照しています。)

新着コメント(コメント24件)