かっぱにもらった宝物 についてのコメント&レビュー投稿
昔、ある男が町へ買い出しへ行くため茨城は結城の釈迦沼の近くを通りかかった時の事。沼のほとりの茂みの中から小さな子供が現れ、男に八千代村の飯沼にいる者へ手紙を届けて欲しい...…全文を見る

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投稿者:マルコ 投稿日時 2013/11/6 18:16
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マルコが江戸時代の文化を勉強していた時に思ったことを書き込みます。
このお話に登場する飯沼の河童の飯沼というのは、歴史の教科書にも登場している飯沼新田の飯沼かもしれません。場所もちょうど八千代町のあたりですし。

新田には色々と種類があります。村請新田、町人請負新田、藩営新田、代官見立新田。
その中で、飯沼新田は村請新田に属しています。
飯沼新田(1725~1727)24の村の湖沼干拓地。とありました。

飯沼新田開発の中心人物に秋葉 左平太さんという人がいるそうです。
出生地 : 八千代町
年~ 1740年 (和暦:年~ 元文5 年)

ゆかりの市町村は古河市, 常総市, 坂東市, 八千代町

飯沼の干拓

江戸時代初期以前の飯沼は、下野国に源を発する江川が流れ込む幅約4km、長さ約2kmの葦の生い茂る湿原で、鬼怒川に流出していました。江戸時代初期の河川改修の後、鬼怒川の河床が上昇し、流れ込む水がせき止められて沼沢地となりました。当時は雨が降って鬼怒川が増水すると、鬼怒川から逆流した水で飯沼は満水となり、周辺の田畑は冠水し、農作物に甚大な被害を与えていました。

享保10年(1725年)になると、井沢弥惣兵衛為永によって飯沼が干拓され、新田開発が行われました。これは、飯沼の中央に飯沼川を開削し、菅生沼を通して利根川に落とす(図3-3)とともに、鬼怒川の水を吉田(下野市)から引いて干拓地にかんがいするという計画でした。

ところが、その導水路は分水と漏水のため飯沼の干拓用水としては役に立ちませんでした。さらに洪水によって上流から運ばれた土砂の堆積や天明3年(1773年)の浅間山の大噴火で降り積もった火山灰によって利根川の河床が上昇してしまいました。その結果、利根川の水が逆流しやすくなり、飯沼干拓地は再び排水不良になり、毎年のように水害を受けるなど、営農上の大きな負担になっていました。利根川の河床は、享保年代から明治30年までの間に3m以上上昇しました。

飯沼新田に流れ込む水を迂回させるために飯沼の周りに掘った西仁連川、東仁連川などの承水路が掘られましたが、排水能力は十分ではありませんでした。

その後、県営事業による昭和4年に幸田排水機場の設置、昭和19年の西仁連川の改修、昭和24年の東仁連川の改修、昭和58年の幸田新排水機場の竣工等を経て美田地帯が成立しました。

もっと詳しいことが知りたい方はこちらへ

http://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/kokuei/kinugawa/kinugawananbu04.html
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/1/25 21:46
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これを見てかぼちゃの茎の汁で文字を書けるのかと思いました。
まあ書けるよねー?
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