むかし、まだ八橋が野路の宿(のじのしゅく)と呼ばれていた頃の話。
ここに一人の心根がやさしく、敬虔な女の子がいた。女の子はよく尼僧院へ行って遊び、尼さんたちからも大変可愛がられていた。やがて女の子は成長し、縁あってこの地に住む医者のもとに嫁ぐことになった。
夫婦は二人の男の子にも恵まれ、幸せな生活を送っていた。ところが、医者の不養生とはよく言ったもので、夫は下の子が産まれてすぐに流行り病にかかって亡くなってしまった。早くに夫と死別し女手一つで二児を育てねばならなくなった妻は、屋敷を売り払い小さな家に二人の子とともに移り住んだ。そこで慣れない畑仕事などしながら生計を立てていた。以前の生活に比べればつつましくなったものの、それでも親子三人貧しいながらも幸せに暮らしていた。
そんなある日、母親は逢妻川(あいずまがわ)の近くに薪を取りに出かけた。二人の子も母親の手伝いについて来たのだが、川には深みがあって危ないので、母親は子供たちに薪を背負わせて先に家に帰るように言った。ところが母親が川を渡っているのを見て、子供たちは母を追って川の中に入って来てしまったのだ。子供たちは足を滑らせ、母親が助ける間もなくあっという間に川の流れに呑まれてしまった。二人の子は数日後、下流で変わり果てた姿で発見された。
母は悲しみのあまり、来る日も来る日も二人の子の後を追うことばかり考えるようになった。母はこのことを尼さんに相談すると、尼さんはこう言った。「亡き子の菩提を弔うため、仏の道に入りなされ。それがあなたに残された生き方。」
母は尼さんの言葉もあり、仏門に入り名を師孝尼(しこうに)と改め、自ら尼僧となって亡き子の菩提を弔うことにした。ある日、師孝尼が川を見ると、上流から流木がたくさん流れ着いており、この流木を飛び移りながら向こう岸に渡る猿がいた。これを見た師孝尼は、この川で命を落とす人が今後出てほしくないとの思いから、川に橋を架けることを決意した。
それから師孝尼は、女の細腕で橋を架ける作業を一人ではじめた。そしてある年の5月、橋はとうとう完成した。完成した橋は向こう岸からこちらまで8箇所架けられていたので、以後、この村を「八橋」と呼ぶようになったそうだ。
また、何時の頃からか、この橋の近くにかきつばたが見事な花を咲かせるようになり、八橋は街道すじの名所になった。
(投稿者: やっさん 投稿日時 2011-6-25 11:35 )
ナレーション | 常田富士男 |
出典 | 愛知の伝説(角川書店刊)より |
出典詳細 | 愛知の伝説(日本の伝説07),武田静澄,角川書店,1976年6年10日,原題「八橋」 |
場所について | 無量寿寺(子供の供養塔のある場所) |
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