実際にお話を見たところ、以下の通りで間違いなかったです。少しあらすじ文章を調整する予定ですので、取り急ぎ追記。2020年8月31日現在
福島の民話 第二集(未来社,1966年09月30日)に、同タイトル名のお話があり「このお話かもしれない」ということであらすじを書いてみます。
むかし、会津にある飯盛山は弁天山と言われていた。それは、山の奥に弁財天が祀られていたからであったが、あまりに奥で通いにくいことから、滝沢村では山の中腹に弁天様のお堂を立てることにした。毎日、一戸から一人、五十人が出て作業し、二ヶ月ほどで完成した。そして、ある晴れた日を選んで、お堂の広場で盛大なお祝いの宴を始めた。
そのちょうどお昼頃、どこからか牛の鳴く声がして、村人たちが見ると、一人の娘が一頭の黒牛に乗ってやってくる。手には赤飯を山盛りにしたお鉢を持って、広場へとやって来た。その娘のあまりの美しさに村人たちは見惚れた。そして「この度は、立派なお堂をありがとうございました。お礼としまして、この赤飯を御馳走いたします」と娘は言った。
村人が「どこから来た?」と聞いても「ささ、遠慮しないで」と娘は赤飯をすすめて笑うだけで答えようとしなかった。すすめられるままに村人たちが赤飯をいただくと、それは今まで食べたことがないくらいの美味さであった。そして、口々に「美味い、美味いぞ」といって食べた。その赤飯は、不思議なことに、何度よそおっても減ることはなく、ひとりでに飯が湧いてきた。
村人たちが不思議に思いながらも、腹いっぱいになるほど食べて満足すると、娘はお鉢を牛に背負わせて「お粗末様でした」と言って、どこかへ行ってしまった。村人たちは茫然と見送ったが、ぞろぞろと娘の後を追いかけ始めた。娘と黒牛は滝沢村の村はずれから南の道を通り、千メートルくらい行くとボーっと姿を消した。村人たちは誰いうとなく「あの娘は弁天様じゃったんじゃ」と言い、牛が消えた辺りに牛の墓を立てて祀り、今では「牛ヶ墓」という地名となった。また弁天山は飯を盛った形をしていることから飯盛山と呼び、今でも親しまれているとさ。
(投稿者: araya 投稿日時 2012年1月19日 2:07 )
ナレーション | 常田富士男 |
出典 | 片平幸三(未来社刊)より |
出典詳細 | 福島の民話 第二集(片平幸三,未来社,1966年09月30日)採録地は会津若松市で、舞台は滝沢村。 |
場所について | 厳島神社(飯盛山の弁天様を祀る) |
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