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No.0965
さんぼんあしのからす
三本足のからす
高ヒット
放送回:0608-A  放送日:1987年07月18日(昭和62年07月18日)
演出:又野龍也  文芸:沖島勲  美術:長尾仁  作画:又野龍也
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あらすじ

ある年の夏、武蔵の国ではひどい暑さと日照りが続き、田畑の作物はみんな枯れてしまった。それもそのはず、どうした訳かこの年に限って空には太陽が2つも輝いていたのだ。焼けるような暑さはそのためだった。

この話を聞いた都の天子さまも大層ご心配になり、誰か弓の名人を連れてくるように命じられた。2つの太陽のうち、どちらか1つがさしずめ魔物であろうから、これを射落とそうと言うことであった。すると、家来の1人が天をつくような大男を連れてきた。この男は、飛ぶ鳥であろうが、どんな獲物も1本の矢で射止めてしまうという弓の名人であった。男は、大きな弓とこれまた大きな1本の矢を持つと、京の都を後にして武蔵の国へ向かった。

何日もかけて武蔵の国にたどり着いた男であったが、じりじりと焼けるような暑さと強い陽射しが男を襲った。男が歩いていると髪の毛に火がつき、またさらに歩いて行くと、今度は着ている服が焼かれるというような凄まじい陽射しであった。このため、男はとうとう暑さのために倒れてしまった。ところがちょうどその時、日が西の空に沈み始め、男は命びろいした。

男が目を覚ますと、それはちょうど夜が明けて、東の空から太陽が上がってくるところだった。そして今日も地平線から太陽は2つ昇ってきた。男は高い岡の上に立つと、どちらが本当の太陽か見極めようとした。すると、1つの太陽がその正体を現すかのように、男の方に迫って来た。

男は弓をひき、迫ってくる太陽に向かって矢を放った。すると、「ギャーー!!」という悲鳴とともに、太陽は落ちていった。太陽が落ちた先を村人が見に行くと、そこには山ほどもある大カラスが心臓を射貫かれ、死んでいた。そして、この大カラスには足が3本もあったのだった。

それからこの地を、魔物を射たことから射る魔と呼ぶようになり、これが入間という地名の由来だそうだ。

(投稿者: やっさん 投稿日時 2011-8-20 9:15 )


参考URL(1)
https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/rekishi/ehon/irumachimei.html
ナレーション市原悦子
出典埼玉のむかし話(日本標準刊)より
出典詳細埼玉のむかし話(各県のむかし話),埼玉県国語教育研究会,日本標準,1973年12月10日,原題「三本足のからす」,採録地「狭山」
場所について埼玉県入間市(地図は適当)
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地図:埼玉県入間市(地図は適当)
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※掲載情報は 2011/8/20 14:48 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
5件表示 (全15件)
ゲスト  投稿日時 2015/12/28 15:03
3)更に、韮塚一三郎「埼玉の伝説」
(『埼玉県伝説集成(中)』韮塚一三郎編著 北辰図書出版昭和48刊)
 『昔、二つの太陽が天に出て昼夜の別なく照らした為地上の草木は枯れ果ててしまった。時に聖天子、天に二日あるべからず。一日は魔物なり、勅命して京都の武士に退治申し付ける。一説にこの武人は、橘諸兄の次男・諸方であるという。御下賜の弓矢を以って武蔵国で太陽の真ん中を射抜いた。すると忽ち、太陽は光を失い、黒雲とともに3本足の白鳥と化して岡の上に落ちてきた。この魔物を射た所を 日討(にっとう)、これを祭ったところを日祭(にっさい)、矢を射たところを矢颪(やおろし)、落ちたときに天が逆さになったので天倒山(てんとうざん)、鳥の血が滴った川が「汁たれ」、その川が反対に流れたので逆川(さかさがわ)になった。魔物を祭った神社が、毛呂山の出雲伊波比神社。かつて日落射(ひおとしい)大明神といった。また、飯能市矢颪には、征矢(そや)明神があり、狭山市入間川東小学校(旧入間川中学校)の中庭が天道山だという。汁たれ川は、いつも白く濁っており、母乳不足の母親が橋の上に豆腐を供えると霊験が有った。この橋は、太陽の神の宿るところと云って、昔から特別崇敬されたものだという。』

4)今坂柳二「むさし野の伝説 狭山篇」㈱ネットワーク・平成元年刊
「射留魔のテント山」
 『昔、二つの太陽が天に出て昼夜の別なく照らした為地上の草木は枯れ果ててしまった。時に聖天子、天に二日あるべからず。一日は魔物なり、勅命して京都の武士に退治申し付ける。』すごい弓の名人「タチバナのモロカタ」に頼みに行く。モロカタさんは引き受けて太い竹を切って弓を作り、天皇様は白い羽の矢をくださった。とうとう狭山のど真ん中にある「テンノウ山」まできてしまった。テンノウ山の神にお伺いをたて、「一段低い丘で陸稲畑を焼いているのが幻魔の化けたニセテントウだ」と教えられ、その太陽の真ん中を射抜いた。すると忽ち、太陽は光を失い雷がなり天と地が、森も岡もひっくり返った。が、それもいっとき。たちまち晴れ上がった東方の岡に 白い、大きな、三本足のカラスが落ちてきた。ヤマトの国の空には本物の太陽がひとつだけきらきら輝いておったんですって。都からはるばる幻魔テントウを追っかけて退治したので、都では「射留魔の里」と呼ぶようになった。

「シルタレ川とサカサ川」
 モロカタさんが射落とした幻魔テントウの正体は、3本足の大きな白いカラスだった。白カラスは血の色も白く、流れた川は白濁していた。モロカタさんによると、「ムサシ中の雨雲を吸い取っていたのでそれが流れだしたのだ。ムサシの国に田んぼがあるかぎり流れ続けるだろう。川の名前は魔神の血が滴り落ちたので、シタタレ川としよう」これがいつの間にか「シルタレ川」になった。又、川の流れが東に向かわないで西に向かったので「サカサ川」という。遠山豆腐店の西側を流れていたサカサ川には石橋の逆川橋が掛かっており、その橋の上に、母乳の出ない母親が豆腐を供えていたそうだ。

「カラスの声が悪くなったわけ」
 テント山には、親分のお化けガラスが住んでいた。その、大ガラスは白くて三本足で変幻自在。あるとき、お天道様に化けたもんで、弓の名人に射落とされて死んでしまった。それで落着したわけではない。親分ガラスが殺されたのを聞きつけた子分のカラスは、国中からテント山に集まったその数は、空を覆い尽くす何万羽。空にはひとつのオテント様で実りはよくなったが、子分カラスの大群が田畑荒らしをはじめた。近在の名主ドンが集まって評定の結果、山伏に頼んで伏霊祈祷。親分ガラスの悪霊退散、子分ガラスの故郷への安穏帰参。命がけの護摩焚き祈祷。生木百束、百人の大団扇、護摩木のケブをテント山に送り込んだ。その護摩の煙を吸い込んだので、カラスの声があんなに悪くなったというわけさ。

 入間が射留魔だという伝承口碑は、大体のこの4点にさかのぼって引用されているようだが、あの、井沢蟠龍先生の「俗説」とはまだ少し違う。しかし、おおむね、太陽を標榜してカラスといわれる人たちが、ヤマトに征伐され、征伐された後も、お乳が出るように霊験か怨霊が働いていた地域だったのは確かなようだ。武蔵国入間郡とヤマトとの関係から、入間のカラスを炙り出せないか。歴史のなぞに絡まった。
http://www.raifuku.net/dic/way/kurou/ku_121001.html
ゲスト  投稿日時 2015/12/28 14:39
狭山丘陵(さやま きゅうりょう)は、日本の関東平野西方、埼玉県と東京都の都県境に東西11km、南北4km、総面積約3,500haの規模で広がる丘陵である。周囲は武蔵野台地となっている。
埼玉県所沢市・入間市から、東京都東村山市・東大和市・武蔵村山市・西多摩郡瑞穂町に跨っている。狭山湖(山口貯水池)・多摩湖(村山貯水池)の水源保護林があったために、広域の里山の環境(景観を含む)が保持されている。
豊かな自然に恵まれた当地域は、遥か石器時代の昔から多くの人々に利用されてきた。 遺跡の宝庫であり、230以上が確認されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AD%E5%B1%B1%E4%B8%98%E9%99%B5
ゲスト  投稿日時 2015/12/28 14:26
入間市 地名の由来
1.この辺りは、昔から「入間野」と呼ばれていたこと。(「吾妻鏡」による)
また、ここで作られている生産物に「入間」の文字が盛んに使われていて一般的である。
2.漢字も、「入」は豊かな収入、「間」は「太陽を囲んだ平和な生活を営むこと」を表すということで「入間」(いるま)が選ばれました。https://www.city.iruma.saitama.jp/shisetsu_kyoiku/12819/015318.html
ゲスト  投稿日時 2015/12/28 14:14
入間郡家 所在地

律令制が確立すると、入間川に近い川越市 上戸には入間郡役所である入間郡家(いるまぐうけ)が置かれ、上野国・下野国から武蔵国の国府(府中)に至る官道の東山道武蔵路が通じ、日本各地で作られた須恵器や土師器が出土しておりこの地方の中心であったことが分かる。
ゲスト  投稿日時 2015/12/28 13:59
弓矢と関係の深い、入間郡 三芳野(川越市)

奈良・平安時代には、入間郡 川越は「三芳野の里」と呼ばれ、伊勢物語には川越(みよし野)の様子が詠われている。江戸期に編まれた新編武蔵風土記稿ではこの場所を市内の的場だと比定している。
「みよし野の田の面の雁もひたぶるに君がかたにぞ寄ると鳴くなる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E8%B6%8A%E5%B8%82%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
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