No.0899
たちばなろっかくどう
立花六角堂
高ヒット
放送回:0566-A  放送日:1986年09月20日(昭和61年09月20日)
演出:又野龍也  文芸:沖島勲  美術:田中静恵  作画:又野龍也
岐阜県 ) 25567hit
あらすじ

昔、岐阜の立花に地蔵坂峠という峠があった。

ある日、飛騨からやって来た一人の大工がこの峠を通りかかった。すると突然霧が出てきて、その中に六角のお堂がぼんやりと現れた。よく見ると、お堂の前に一人の坊さんが、何か言いたげで寂しそうな顔をして立ちすくんでいた。

不思議に思いながら峠を下り、寺があったので住職に今の出来事を話した。その話を聞いた住職は「うんと昔、たいちょう(泰澄?)という坊さんがあの峠の頂きにお堂を建てて、旅人の安全を願ったり茶の接待ををしていたそうだ。たいちょうさんが亡くなられてからは、とうとう朽ち果ててしまった」と話した。

それを聞いた大工は峠に戻り、峠の木で幻の中に見た六角堂を作り始めた。大工は鬼気迫るような勢いで六角堂を作りはじめ、次の日の昼、六角堂は出来上がった。住職は、これが話に聞く名大工「飛騨の匠」ではないかと思った。

それからしばらくした日のこと、一人の男が六角堂を眺めていた。男は「よほどすごい腕前の人が作ったのだろう」と感心していた。そこで住職は、旅の大工が丸一昼夜でこのお堂を建てたことを話して聞かせた。男と和尚が六角堂の中も見ていると、さっと風が吹いて六角堂の入り口の扉が閉まり、中に閉じ込められてしまった。

住職は扉を開けようとしたがまったく開かない。旅の男は「これは中からは開かない」と言って、ノミを取り出すと木片を削り始め、まるで生きているようなカラスを彫った。その木彫りのカラスは、男の手から飛び立つと、六角堂の外に飛び出し、大きな声で鳴き始めた。

そのカラスの声に呼び寄せられるように、たくさんのカラスが集まってきた。あまりのカラスの数に驚いた村人達はただごとではないと思い、地蔵坂峠の上に集まってきた。村人たちによって、住職と男は外に出ることができた。

住職は「この間の大工は飛騨の匠、あの男は話に聞く『左甚五郎』ではないか」と思った。こうして霧の中に現れたたいちょうさんの願いが叶い、人々に忘れられていた六角堂が再び地蔵坂峠に出来上がった。そしてこの六角堂は、旅人の安全を願って今も長良川の上流、立花の地蔵坂峠の頂上に建っているということだ。

(引用/まんが日本昔ばなし大辞典)


参考URL(1)
http://tempsera.at.webry.info/200806/article_53.html
参考URL(2)
http://www.city.mino.gifu.jp/pages/1723
ナレーション市原悦子
出典赤座憲久(未来社刊)より
出典詳細美濃の民話 第一集(日本の民話51),赤座憲久,未来社,1973年09月10日,原題「佐が坂の六角堂」,採録地「美濃市」,話者「那須俊治郎」
場所について鹿苑寺地蔵堂(六角堂)東海北陸自動車道の立花トンネルの上辺りにある
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地図:鹿苑寺地蔵堂(六角堂)東海北陸自動車道の立花トンネルの上辺りにある
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※掲載情報は 2011/2/11 22:30 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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ゲスト  投稿日時 2015/9/30 20:30
泰澄(たいちょう、天武天皇11年6月11日(682年7月20日) - 神護景雲元年3月18日(767年4月20日))は、奈良時代の修験道の僧。加賀国(当時越前国)白山を開山したと伝えられる。越の大徳と称された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%B0%E6%BE%84

泰澄大師と白山信仰
泰澄大師像 白山本地堂 白山は、泰澄大師(たいちょうだいし、682あるいは691-767)が開いたといわれています。開いたというのは、初めて白山で修験道の修行を行い、白山の神を祀り、それまで素朴な山岳信仰だった白山信仰に、仏教的な意義付けをしたという意味でしょう。
 泰澄は越前の人で、高句麗からの亡命帰化人の子であったといいます。伝承によると、奈良時代より少し前の文武天皇の時(702)、鎮護国家法師に任命されています。また、中央の仏教界、政界の有力者などとの密接な関係を持ち、白山信仰を中央にまで広めたといいます。
 ところが、そんな偉い人なのに、正式な記録文書には泰澄の名は見えないんだそうです。それで、泰澄は中央との関係が本当は無かったのではないかとも言われています。ひょっとすると、実際の泰澄は中央の仏教界とは無関係の民間の仏教信者、一介の修行僧にすぎなかったのかも知れません。しかし、例えそうだったとしても、泰澄が白山の神をもっとも熱心に説いて回った人であったことの否定にはなりません。
http://w2223.nsk.ne.jp/~toramoto/rtdhs.htm
ゲスト  投稿日時 2015/9/30 20:22
郡 上 街 道  
江戸時代、中山道加納宿(岐阜市)から北上し、郡上八幡を経て、白鳥から越前大野に抜ける道が郡上街道である。  越前街道と呼ばれることもある。  国道156号線の旧道にあたり、長良川の谷沿いの道で、多くの峠を越える道である。
岐阜市加納から郡上八幡、白鳥を経由して石徹白(いとしろ)の大師堂に至ったのが郡上街道である。  石徹白は白山の麓に位置し、そこへ向かった郡上街道は白山信仰の道でもあった。  国道156号線の旧道にあたり、長良川の谷沿いの道で、多くの峠を越える道である。  特に、美濃市から郡上八幡の間は、長良川は蛇行し、深い谷を刻みながら流れている。
http://mrmax.sakura.ne.jp/gihu/gujyo.html
ゲスト  投稿日時 2015/9/30 20:04
マルコ  投稿日時 2013/3/3 1:44
鹿苑寺地蔵堂(六角堂)について紹介します!!

昔から立花六角堂として有名なこのお堂は、旧郡上街道の地蔵坂峠にあり、村の繁昌と旅人の安全を守る地蔵堂であった。
このお堂に掲げられている元文3年(1738年)の板額に記されているものによると、応長(おうちょう)元年(1311年)に飛州(飛騨の国)の大工匠頭藤原朝臣宗安が再建したとある。建築の様式から考えて、この記録のように鎌倉時代末から室町時代初期のものと推定され、美濃市内最古の建築である。
平面は六角形で周囲に縁をめぐらし、柱は円柱、斗組(ますぐみ)は三斗(みつと)、屋根は桧皮葺で、屋根上の露盤(ろばん)や宝珠は後補のものである。内部の柱に天文(てんぶん)年間の墨書の落書がいくつか見られ、この堂の古さを立証している。
このお堂を左甚五郎が建てたという俗説があるが、左甚五郎が飛騨の匠といわれ、この堂も飛州の匠頭が作ったものであることから誤り伝えられたものであり、左甚五郎の時代よりも300年も古い建築である。
六角堂は度々の補修で柱の多くは根継ぎされ、当初材は中央の来迎柱(らいごうばしら)など数本に過ぎない。しかし柱や斗組の部分に室町時代初期のものがそのまま残っており、貴重な建築として国の重要文化財に指定されている。信仰により700年の歳月を今日まで護りぬいてきたこの地蔵堂は素朴で美しく、県下にも六角堂は稀であり室町期建造物として甚だ貴重である。
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