No.0859
くさかりがめ
草かり亀

放送回:0540-A  放送日:1986年03月22日(昭和61年03月22日)
演出:こはなわためお  文芸:沖島勲  美術:小出英男  作画:柏木郷子
石川県 ) 6735hit
あらすじ

石川県の額見と言うところに、六兵衛と言うおじいさんが住んでいた。昔は腕の良い樵として方々に知れていた剛の者だったが、今は御宮の草刈りを仕事にして暮らしていた。

その頃、御宮の裏にある大池の主のカメが、近付く者を沼に引きずり込むと言うので、村人に恐れられていた。

ある日の事。六兵衛がいつものように草刈りをしていると、見慣れない子供が一人ひょっこりと姿を現わし、六兵衛に「俺の背中に乗れ。沼に行って遊ぼう」としきりに誘うのだった。六兵衛はその子供の様子があまりにも怪しいので「きっとこ奴は沼の大ガメが化けているのだろう」と思い、騙された振りをして子供の背に飛び乗った。

すると子供はその小さな体に似合わぬ怪力で六兵衛を担ぎあげ、物凄い早さで沼に潜り込もうとした。六兵衛は必死に子供を押さえつけ、子供は必死に六兵衛を沼に引き込もうとする。暫く力比べが続いた後、とうとう六兵衛の怪力が勝って、子供を岸に投げ飛ばした。

六兵衛が怒りの形相で「お前を半殺しにしてやるぞ」と脅しつけると、子供は見るみる内に大ガメの正体を現わし「命だけは助けてくれ。俺があんたの代わりに御宮さんの草むしりをするから」と涙ながらに命乞いをした。六兵衛はその様子を見て大ガメが哀れになり、大ガメを沼に戻してやった。

それから暫くして、六兵衛は亡くなった。そして六兵衛が亡くなった後、不思議な事にあの御宮の境内には一本も草が生えなくなった。それはあの沼の主の大ガメが六兵衛との約束を護って、夜になると御宮の草を一本一本むしっては食べているからだ、と人々は噂した。

人々はその御宮さんの事を「六兵衛神社」と名付け、六兵衛を偲んだと言う事だ。

(投稿者: 熊猫堂 投稿日時 2013-9-22 15:23 )


参考URL(1)
http://www.genbu.net/data/kaga/ketamiko_title.htm?print=on
ナレーション市原悦子
出典清酒時男(未来社刊)より
出典詳細加賀・能登の民話 第一集(日本の民話21),清酒時男,未来社,1959年08月31日,原題「草かり亀」,江沼郡誌より
場所について小松市額見町の気多御子神社
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地図:小松市額見町の気多御子神社
追加情報
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※掲載情報は 2013/9/22 16:13 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
8件表示 (全8件)
ゲスト  投稿日時 2016/1/2 15:51
源頼朝の時代の額田郷(額見)と八田郷

加賀武士 板津成景と鎌倉殿勧農使(源頼朝)
「一所懸命」の武士、板津成景はまたしかし、所領を守り続けるだけの単純な武士ではありませんでした。
文治2(1186)年9月、加賀国の南部にある江沼郡額田・八田の両郷を他の土豪とともに押領したとして、鎌倉殿頼朝から押妨停止の命令を受けています。
江沼郡額田庄住人宛ての源頼朝下文案が京都大学に残っており、これに板津介成景が宗親法師とともに庄園領の八田・額田両郷を押妨したと指摘されているのです。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sakura/5469/gunzo041.html
ゲスト  投稿日時 2016/1/2 15:22
額見村は「額田郷」と律令の時代より呼ばれていた。
「気多御子神社 尚。当地は額田の郷と称されていたが永正・永禄(室町中期)の頃額田の庄と改められその後何時しか額見と称せられた。
又集落も神社北東側の串境まであり150戸余りの大集落であったが安政4年(江戸末期)の大火で村民は離散し15戸程度となり、その後一世紀余の間に文化、経済共に発展し恵まれた住みよい環境で新しい町として繁栄の途をたどっている。
宮司 藤峰雅行 」とある。
八田郷は額田郷の南辺りのようです。

加賀国 江沼郡 八田郷
現在の小松市矢田町・矢田野町・矢田新町が遺称地とされ(地理志稿・江沼志稿・加賀志徴・日本地理志料)、異論はない。郷域は、矢田町・矢田野町・矢田新町が位置する三湖台とその周辺の低湿平地と推定され、郷域内に三湖台遺跡が知られる。(p904)
http://mille-vill.org/%E6%B1%9F%E6%B2%BC%E9%83%A1%E5%85%AB%E7%94%B0%E9%83%B7(%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E7%9C%8C)
ゲスト  投稿日時 2015/12/31 21:25
気多御子神社
社守には加賀藩士滝川玄蕃左門氏およびその子孫が御奉仕されていた。

広大な社叢はキタノモリあるいは神ケ森(じんがもり)ともよばれてきた。
境内には古来雑草が生じないとされている。伝承によれば、延宝年間(1673~81)に瀧川家四代の社守六兵衛が淵に入つて禊をしていた時、淵に棲む大亀が襲ったので捕えて殺そうとした。この時大亀が末代に至るまで境内の草を取つて生ぜしめないと誓約したので放免した。それより境内には一草も生じないのだという。
http://www.geocities.jp/engisiki/kaga/bun/kag320110-01.html

社守 四代 「瀧川 六兵衛」
お名前のようです。
ゲスト  投稿日時 2015/12/31 21:11
臼のほぞ古墳(うすのほぞこふん)(三湖台古墳群) 小松市串町字臼の臍1番地
大本教の公園になっている。「牛のほぞ」といわれていたこともあった。
月津台地の一番高いところに築かれている。
5世紀後半の築造とみるか6世紀の築造とみるか特定できていない。
月津台地では、5世紀後半の御幸塚古墳を最初に、6世紀代に爆発的に古墳群が誕生した。
総数は100基を超えると考えられていて、臼のほぞ古墳は、その中で最大の古墳と考えられている。

全長52mの前方後円墳 古墳の周囲を取り巻く周溝が、現在も確認できる。
くびれ部登り口の通路と、後円部頂上の四角い高まりは、後世に盛ったもの。前方部を削って、後円部の四角い高まりを作ったと思われる。もとは、前方部が後円部に近い高さだったと推定されている前方部の発達は後期古墳の特徴。

臼のほぞ古墳の北側は崖になって、工場があるが、そこは額見町遺跡だ。
オンドルをもつ渡来系集落として全国に知られている。額見町遺跡とは産業団地建設にともない約38000㎡が発掘調査され、竪穴住居119基、掘立柱建物330基などが確認された。集落の始まりは7世紀初めで、以後12世紀まで長きにわたって営まれた。額見遺跡で注目すべきは、竪穴住居に設けられた特殊な構造をもつカマド。これはカマドの煙道を住居の壁に沿ってL字形に取り付けたもので、煙道を伝わる熱で住居内を暖めようとした施設と考えられている。中国東北部や朝鮮半島北部の竪穴住居に見られる「オンドル」と呼ばれる床暖房施設によく似ている。額見町遺跡の竪穴住居では23基でこの施設が見られ、いずれも7世紀代につくられたものである。同様の施設は、北部九州や近畿に分布していて、北陸では、月津台地の額見遺跡、矢田野遺跡、薬師遺跡に集中して存在する。

周辺が土取りをされていく中で、臼のほぞ古墳は現在の所有者の宗教法人大本教が、古墳の存在を認識して、この場所を聖地としたため奇跡的に残った古墳といえる。臼のほぞ古墳は、大本教の施設の敷地内にあるので、許可をもらってから見学してほしいとのことである。
http://mj-ktmr2.digi2.jp/p17kg/pkg17203usuhozo.htm
ゲスト  投稿日時 2015/12/31 20:59
額見町西遺跡(古墳時代) L字形カマドの調査風景  
小松市額見町
 竪穴住居址で検出されたカマドは、朝鮮半島でよく見られるL字形をしています。そのため、額見町西遺跡は渡来人の集落だったと推定されます。 
http://www.ishikawa-maibun.or.jp/iseki_new/kaga/nukaminisi/nukaminishi_kohun/nukaminishi_kohun.htm

こんな遺跡もありました。
ゲスト  投稿日時 2015/12/31 20:42
月津村(つきづむら)は、石川県江沼郡に存在した村。
月津は元は「着津」とも表記され、柴山潟の船着場に由来するとも言われる。
現在の小松市西部及び加賀市北東部。柴山潟を囲む形の村だった。現在の北陸本線粟津駅西方から片山津温泉の北方辺りに位置し、ほぼ平坦な地形である。農業の他、柴山潟での漁業も行われていた。
月津には円墳である茶臼山古墳がある。
歴史
江戸時代、加賀大聖寺藩領であった。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、月津村、月津新村、額見村、矢田村、矢田新村の5村が合併、江沼郡月津村が成立。
1891年(明治24年) - 篠原村から大字柴山を編入。
1955年(昭和30年)4月1日 - 大字柴山は片山津町に、他の5大字は小松市に編入。大字月津新は四丁町と改称。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E6%B4%A5%E6%9D%91
ゲスト  投稿日時 2015/12/31 19:53
土地改良の歴史
土地改良事業以前の状況
干拓前の航空写真「加賀三湖干拓前」(S22 撮影)
この地域の開発は、国営加賀三湖干拓事業(昭和27年~昭和44年)にて干陸された。以前は、柴山潟には、動橋川、八日市川、御橋川が流入、排水は串川を通じて今江潟へ。一方、木場潟には、日用川が流入、排水は前川を通じて今江潟へ。柴山潟と木場潟から流入する今江潟の排水は梯川を通じて安宅にて日本海に注ぐ地形でした。
梯川本流は流域面積が大きく、洪水時には水位が高くなり、河川水が今江潟へ逆流してきた。冬期には日本海特有の西北風が吹き荒れると、梯川河口は漂砂により度々閉鎖され、行き場を失った水は湛水し一面の湖化となりました。ときには小松市街までも浸水することもあった。また、季節風による海水が遡上(逆流)する現象が起こり、沿岸耕地はしばしば塩害を受ける地域でありました。
(参考文献:加賀三湖土地改良五十年史)

国営土地改良事業のあゆみ
太平洋戦争直後の食糧増産が課題であったとき、昭和23年の福井地震により、加賀三湖周辺の耕地は沈下し、浸水被害の頻度が更に増大した。これを契機として地元民の強い要望により、未利用地水面の開発と周辺耕地の排水改良を併せ行う事業として昭和25年から調査開始、昭和27年工事に着手しました。
事業は、柴山潟の一部を干拓し、残存湖から小松砂丘に放水路(新堀川)を新設し、日本海に直接流下させ、潟は海水面との高低差がきわめて小さいため、放水路には新堀川潮止水門を設置し、海からの逆流を防いでいます。また、御橋川は残存湖へ流れるように付替えました。

今江潟は全潟を干拓。木場潟は用水源及び洪水調整池として残存させ前川を梯川まで延長して日本海へ流下させました。
干拓地は農地とするために、県営ほ場整備事業が行われ昭和51年には全面作付が可能となりました。
http://www.maff.go.jp/hokuriku/kokuei/nishihoku/shibayamagata/tochi.html
熊猫堂  投稿日時 2013/9/22 15:23 | 最終変更
ワタクシが住んでいた地域でこのお話が放映された時、Aパートが丁度「大蛇ぐらの怪女」で、主人公の名前が同じ「六兵衛」でした。「大蛇ぐら」の六兵衛は漁師、「草かり亀」の六兵衛は樵でしたが、どちらも力持ちだと言うのが共通していて、不思議な偶然を感じた物です。
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