No.0705
やつはし
八橋

放送回:0442-B  放送日:1984年05月05日(昭和59年05月05日)
演出:前田康成  文芸:沖島勲  美術:門屋達郎  作画:前田康成
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あらすじ

むかし、まだ八橋が野路の宿(のじのしゅく)と呼ばれていた頃の話。

ここに一人の心根がやさしく、敬虔な女の子がいた。女の子はよく尼僧院へ行って遊び、尼さんたちからも大変可愛がられていた。やがて女の子は成長し、縁あってこの地に住む医者のもとに嫁ぐことになった。

夫婦は二人の男の子にも恵まれ、幸せな生活を送っていた。ところが、医者の不養生とはよく言ったもので、夫は下の子が産まれてすぐに流行り病にかかって亡くなってしまった。早くに夫と死別し女手一つで二児を育てねばならなくなった妻は、屋敷を売り払い小さな家に二人の子とともに移り住んだ。そこで慣れない畑仕事などしながら生計を立てていた。以前の生活に比べればつつましくなったものの、それでも親子三人貧しいながらも幸せに暮らしていた。

そんなある日、母親は逢妻川(あいずまがわ)の近くに薪を取りに出かけた。二人の子も母親の手伝いについて来たのだが、川には深みがあって危ないので、母親は子供たちに薪を背負わせて先に家に帰るように言った。ところが母親が川を渡っているのを見て、子供たちは母を追って川の中に入って来てしまったのだ。子供たちは足を滑らせ、母親が助ける間もなくあっという間に川の流れに呑まれてしまった。二人の子は数日後、下流で変わり果てた姿で発見された。

母は悲しみのあまり、来る日も来る日も二人の子の後を追うことばかり考えるようになった。母はこのことを尼さんに相談すると、尼さんはこう言った。「亡き子の菩提を弔うため、仏の道に入りなされ。それがあなたに残された生き方。」

母は尼さんの言葉もあり、仏門に入り名を師孝尼(しこうに)と改め、自ら尼僧となって亡き子の菩提を弔うことにした。ある日、師孝尼が川を見ると、上流から流木がたくさん流れ着いており、この流木を飛び移りながら向こう岸に渡る猿がいた。これを見た師孝尼は、この川で命を落とす人が今後出てほしくないとの思いから、川に橋を架けることを決意した。

それから師孝尼は、女の細腕で橋を架ける作業を一人ではじめた。そしてある年の5月、橋はとうとう完成した。完成した橋は向こう岸からこちらまで8箇所架けられていたので、以後、この村を「八橋」と呼ぶようになったそうだ。

また、何時の頃からか、この橋の近くにかきつばたが見事な花を咲かせるようになり、八橋は街道すじの名所になった。

(投稿者: やっさん 投稿日時 2011-6-25 11:35 )


参考URL(1)
http://www.city.chiryu.aichi.jp/0000000127.html
ナレーション常田富士男
出典愛知の伝説(角川書店刊)より
出典詳細愛知の伝説(日本の伝説07),武田静澄,角川書店,1976年6年10日,原題「八橋」
場所について無量寿寺(子供の供養塔のある場所)
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地図:無量寿寺(子供の供養塔のある場所)
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※掲載情報は 2011/6/25 20:43 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
1件表示 (全1件)
知立  投稿日時 2013/1/1 19:40
八橋の地名についてこんな話があります。

むかし、野路の宿に、名前を羽田玄喜という医師が、この地の荘司(荘園の役人)の娘である妻と、二人の男の子と楽しく暮らしておりました。しかし、父親の玄喜は、若くしてなくなってしまい、家はだんだんに貧しくなっていきました。
母は二人の子どもを育てるため、山に行ってたき木を拾ったり、浦(今の逢妻川は海に続き、浦になっていた)に出て海草をとったりして、苦労しながらも、子どもの成長を楽しみに暮らしておりました。兄は八歳、弟は五歳になっていました。
ある日のこと、母親は二人の子どもに、
「よい子だから、母さんが帰るまでおとなしく留守番をして、待ってておくれ。」といいきかせて、この浦にのりをとりにでかけました。
二人の子どもは、初めのうちはおとなしく家でまっていましたが、そのうちに母がこいしくなり、川辺まできました。向こう岸で一生懸命のりをとっている母の姿をみつけると、
「おかあさん、おかあさん。」
といいながらかけよろうとして、あやまって川の深みに落ちてしまいました。あっと言う間のできごとです。
目の前で水におぼれて流されて行く二人のわが子を見て、母は気も狂わんばかり。なんとかして子どもを助けようとしましたが、そのかいもなく、とうとう二人のこどもを見失ってしまいました。

母親の悲しみといったら、たとえようがありません。母は無量寿寺に入り、髪をおろして、師孝尼という名の尼さんになりました。
朝夕仏に仕え、二人の子どものめいふくを祈り続けました。そして、「この川に橋さえあれば、子どもがおぼれることもなかったろうに、また、村の人たちも安心して、川を渡ることができるのではないか」と思い、観音様の本尊に祈願をこめ、「どうかこの川に橋をかけることができますように」と、一心に祈りました。
ある夜のことです。

「彼の浦へ行けば、材木がたくさん岸べに打ち寄せられている。それを使って橋をかけるがよい。」と、夢のお告げがありました。
師孝尼は喜んで、浦へ行ってみますと、お告げどおりたくさんの材木がありました。
その材木で、橋を渡そうとしましたが、この川は、流れがいくすじにも、くもの手のようになっていて、まっすぐの一本の橋をかけることはとても無理でした。しかしたがいちがいに板を渡して、どうにか向こう岸にとどく八つの橋ができあがりました。

それからは、村人たちも、楽に向こう岸に行くことができるようになり、橋の数にちなんで、この地を八橋と名づけました。仁明天皇の時代、承和九年(八四二)五月のことです。
その後、師孝尼は、この川のほとりに咲くかきつばたの花を、なき子の供養の花と思いますます信心を深めたということです。

現在、その二人の子の供養塔は、無量寿寺の境内に、師孝尼の供養塔は、在原寺の境内にひっそりと建っています。
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