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No.0684
げんえもんぼっと
源エ門ボット
高ヒット
放送回:0429-A  放送日:1984年02月04日(昭和59年02月04日)
演出:森川信英  文芸:沖島勲  美術:西村邦子  作画:森川信英
福井県 ) 33398hit
あらすじ

昔ある所に「源ェ門」という長者がいた。その屋敷にはたくさんの「ボット」が住み着いていた。ボットとはカエルのことである。なのでこのカエル達は「源ェ門ボット」と呼ばれていた。

このボット達は毎日ぜいたくな生活ばかりしていたので太っており、さらに腹には大きなへそがついていた。村人は、あれはぜいたくな腹にもうひとつぜいたくな腹が出来たんだと言っていた。

しかしある時源ェ門の屋敷は潰れてしまい、ボット達は食い物が無くなって困ってしまった。空腹で鳴いていると、村から美味しそうなにおいがしてきた。ボット達はにおいのする方へ行ってみると、村人がさつま芋を焼いて食べていた。

ボット達は村人に芋をわけてもらうと、あっという間に食べてしまった。 すると焼き芋を食べたボット達は屁をこき始めた。その屁があまりに臭いので、村人はどんぐりでボット達の尻に栓をした。するとボット達の腹が膨らみ始め、とうとう屁が噴射し、空高く舞い上がった。

ボット達は雲の上にいた雷様に、下に降ろしてほしいと頼んだ。すると雷様はそのへそをよこせば降ろしてやると言う。へそを取られたら痛いのでボット達は雲の上を逃げ回ったが、やがて雷様にへそを取られてしまった。へそを食べた雷様は太鼓を鳴らして雨を降らせ、ボット達はその雨を伝って下へ降りた。

下へ降りたボット達は、へそが無くなったので身が軽くなり、雷様に感謝した。それ以来、ボット達は怠けているとまた大きなへそが出来ると思い、一生懸命働くようになった。 そして雨が降ると雷様に感謝し「源ェ門、源ェ門」と鳴くようになった。

(引用/まんが日本昔ばなし大辞典)


ナレーション常田富士男
出典福井県
場所について福井県敦賀市愛発(あらち、地図は適当)
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地図:福井県敦賀市愛発(あらち、地図は適当)
追加情報
本の情報講談社テレビ名作えほん第065巻(発刊日:1986年11月)
講談社の300より書籍によると「福井県のお話」
このお話の評価8.5000 8.50 (投票数 8) ⇒投票する
※掲載情報は 2011/2/11 22:30 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
10件表示 (全12件)
高速戦隊ターボレンジャー  投稿日時 2022/1/6 20:08
マンガ日本昔話(1976年版)(ウマの恩返し、源ェ門ボット)
(1989年5月13日(土)放送)(第698話)
激カメ忍者伝
ゲスト  投稿日時 2019/6/4 8:36
DVDには収録されていないよ
ゲスト  投稿日時 2018/7/22 9:26
神回でしたね。
こんなに笑った話は他になかった。
久しぶりに見て、また涙が出るほど笑いました。
ゲスト  投稿日時 2016/1/3 11:57
子供のとき視聴してすごくおもしろい話だったと記憶しています。
自分の子供にも見せたいのですがこの話はDVD収録されていますか?
ゲスト  投稿日時 2015/11/30 20:09
西近江路(にしおうみじ)は、近江国(滋賀県)から越前国へ通じる街道で、古代・中世の北陸道。北国海道、北国脇往還、北国往還、北国脇道とも。1887年(明治20年)に西近江路として県道となりこの名称が定着した。古来より都と北陸を結ぶ道として人の往来が多いだけでなく、壬申の乱、藤原仲麻呂の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)、織田信長の朝倉攻めなどでは大軍が移動している。また、平安時代の遣渤海使もこの道を通るなど、交流の道でもあった。

(古代)小関越え → 穴多(太)駅(大津市穴太) → 和邇駅(大津市和邇中浜) → 三尾駅(高島市安曇川町三尾) → 鞆結駅(高島市マキノ町小荒路・海津・浦・石庭) → 愛発関(敦賀市疋田か) →

(近世) 大津宿・札の辻(大津市札の辻) → 衣川宿(大津市衣川) → 和邇宿(大津市和邇中) → 木戸宿(大津市木戸) → 北小松宿(大津市北小松) → 河原市宿(高島市新旭町安井川) → 今津宿(高島市今津町今津) → 海津宿(高島市マキノ町海津) → 敦賀宿(敦賀市元町)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%BF%91%E6%B1%9F%E8%B7%AF

愛発は人と物の往来が多く、とても繁栄していた。
ゲスト  投稿日時 2015/11/30 20:02
疋田舟川
http://fukui100kei.dogaclip.com/kanko/Profile-100000101.html

昔の繁栄ぶりが伺えます。
ゲスト  投稿日時 2015/11/30 19:27
愛発村(あらちむら)は福井県敦賀郡にあった村。現在の敦賀市の南東部にあたる。
山岳 : 柳ヶ瀬山、行市山 ・ 河川 : 笙の川
歴史
律令時代より江戸時代まで越前国の一部として敦賀郡をなすが、越前では唯一、峻厳な木ノ芽峠の南側に位置するため、若狭や近江と風土の共通点が多い。江戸時代は若狭・小浜藩の一部、またはその支藩・鞠山藩の支配下にあった。
江戸時代、愛発村地域は若狭小浜藩領であった。
明治13年(1880年) - 刀根村の一部(枝郷杉箸村)が分立して杉箸村となる。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、市橋村・疋田村・追分村・駄口村・山中村・奥野村・曽々木村・新道村・麻生口村・奥麻生村・刀根村・杉箸村の区域をもって発足。
1955年(昭和30年)1月15日 - 敦賀市に編入。同日愛発村廃止。
交通
鉄道路線:日本国有鉄道 北陸本線(1957年より柳ヶ瀬線) 刀根駅 - 疋田駅
現在は旧村域の現・北陸本線に新疋田駅が所在するが、当時は未開業。
道路:国道8号、国道161号
現在は旧村域に北陸自動車道の刀根パーキングエリアが所在するが、当時は未開通。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E7%99%BA%E6%9D%91
ゲスト  投稿日時 2015/11/30 19:11
敦賀市散策 疋田舟川
〒914-0302 福井県敦賀市疋田28-7-1 (愛発公民館) TEL 0770-27-1101
敦賀湾と京都を結ぶために造られた疋田運河遺跡の紹介
 疋田舟川は江戸時代後期に、日本海を経由して運ばれた莫大な物資を敦賀港から京都へ送るために設けられた運河の遺跡です。大量の物資を一気に輸送するためには船舶が最適であり、敦賀湾と琵琶湖を水路で結ぶ効果は計り知れないもののようでした。昔から幾多の人々がこの運河開削に挑戦し、その一部として、敦賀の港からこの地まで開通したのが疋田舟川です。
http://www.fuku2.co.jp/hikita.html

福井県敦賀市 JR新疋田駅~刀根~池河内湿原~476号線
http://www.fuku2.co.jp/fukuicity71.html
ゲスト  投稿日時 2015/11/30 19:04
愛発関(あらちのせき)とは、近江国と越前国の国境に置かれた関所。東海道の鈴鹿関と東山道の不破関とともに三関の1つであった。
詳細な位置は確定していないが、福井県敦賀市南部の山間部の北陸道沿いなどにあったと考えられている。候補としては、
1.近江国からの山中越と深坂越が一つになった後に設置されたとの推定から敦賀市疋田にあった。
2.敦賀平野への出入口である敦賀市道口にあった。
の2つが挙げられる。文書の記録や発掘調査、および近年の研究により現在では敦賀市疋田が有力とされる。

歴史
天智天皇の頃に近江宮を東国から防衛するために設けられたとされ、郡衙や軍団と同等以上の規模だったと考えられる。天平宝字8年(764年)に藤原仲麻呂が反乱を起こした際には、息子のいる越前国への逃走を防ぐために関が閉じられた。その後、延暦8年(789年)に廃され、弘仁元年(810年)の薬子の変では愛発関を閉じた記録はなく、代わって近江国の相坂関に連絡が行っており、この頃には完全に廃止されていたとされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E7%99%BA%E9%96%A2
ゲスト  投稿日時 2015/11/30 18:47
これは実に笑える面白い御話。
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