No.0584
じごくめぐり
地獄めぐり
高ヒット
放送回:0366-A  放送日:1982年11月06日(昭和57年11月06日)
演出:杉井ギサブロー  文芸:杉井ギサブロー  美術:馬郡美保子  作画:馬郡美保子
写真あり / 栃木県 ) 129423hit
あらすじ

昔、日光に弘法大師(こうぼうだいし)が開いたといわれる寂光寺(じゃっこうじ)という寺があった。この寺に、人々から尊敬されている覚源上人(かくげんしょうにん)というお坊さんがいた。

ある日、上人は横になり休んだまま、息を引きとってしまった。だが上人の体はまるで生きているようにいつまでも温かいのだった。人々が困ってるうちに17日が過ぎた。すると、なんと上人が目をさましたのだ。上人は集まっていた人々を見て、「わしは今、冥途の旅から戻ったところじゃ。皆さんにぜひこの話を聞かせたい。」と、世にも不思議な旅の話を語り始めた。

「わしは、雲に乗り闇の中をどこまでも進んでいった。すると炎に包まれた山門があった。鬼が立っていたので、これが地獄門だなと、わしは思った。門をくぐるとそこは閻魔堂。閻魔大王の前に、大勢の人々が引き据えられており、その人々を閻魔大王が裁くのじゃ。」

そうしてとうとう上人の番がきた。すると閻魔大王が上人にこう言った。「おまえをここへ呼んだのは罪人としてではない。この頃地獄へ落ちる人間の数が増えている。罪を犯せば、死後地獄へ落ちるということを忘れているからではないかと思ってな。それで、人々に説教する役目のおまえに、地獄の恐ろしさをよく見てもらって、人々に話してもらいたいのだ。」

こうして上人は地獄めぐりをすることになった。鬼に体を切り裂かれる人、重い荷物を持って針の山をのぼる人、血の池でもがき苦しむ人、鉄の棒でうち砕かれる人、熱く焼かれた鉄の縄で縛られる人・・・そんな地獄の様子を見て、上人は地獄から帰ってきたのだ。その後上人は、人々にこの地獄の話を説き続けたそうだ。

(投稿者: 十畳 投稿日時 2011-8-1 15:22 )


ナレーション常田富士男
出典栃木県
DVD情報DVD-BOX第7集(DVD第33巻)
現地・関連お話に関する現地関連情報はこちら
場所について若子神社(寂光寺)
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地図:若子神社(寂光寺)
追加情報
本の情報講談社テレビ名作えほん第081巻(発刊日:1987年7月)
講談社の300より書籍によると「栃木県のお話」
このお話の評価6.3333 6.33 (投票数 9) ⇒投票する
※掲載情報は 2011/8/2 0:34 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
10件表示 (全22件)
ゲスト  投稿日時 2013/8/7 14:56
昔は、こういった教訓のお話が多かったですよね。私は子どもの頃、お婆ちゃんに昔のお話を沢山してもらいました。とても懐かしかったです。

ひとおもいに殺せって、もう死んでるやんw

閻魔って実はとてもいい人だったんですねー?これは子どもに聞かせるといい?

色合いが綺麗な作画ですね、地獄の恐ろしさを見せて悪行の戒めに-する良い話です

特に理由もなく、面白半分でやってたからだと閻魔様がおっしゃて-ますので、裏を返せばやむおえない殺生もあるとお考えで、意外と-話の分かる方かもしれませんよ(笑)
マルコ  投稿日時 2013/8/7 14:23
あの懐かしい主題歌と共に独特の語りで人気があった「まんが日本むかし話」。どことなくノスタルジックな感覚を呼び起こす昔話の舞台の中で、行ってみたいと思う場所をマイナビニュース会員の男性441人にアンケートをしてみました。

Q.なつかしの「まんが日本むかし話」行ってみたい昔話の舞台は?
1位 金太郎(神奈川県 金時山) 16.6%
2位 牛若丸(京都府 鞍馬山) 14.7%
3位 羅生門の鬼(京都府 羅城門跡) 9.1%
4位 しょじょ寺の狸ばやし(千葉県木更津 證誠寺) 7.9%
5位 恐山のおどり鬼(青森県 恐山) 7.3%
5位 あの世のいり口(北海道 突哨山) 7.3%
7位 地獄めぐり(栃木県 日光市若子神社) 7.0%

■地獄めぐり(栃木県 日光市若子神社)
・「地獄はどんなところか気になる」(25歳/自動車関連/営業職)
・「怖いけど、興味がある。お化け屋敷感覚」(28歳/建設・土木/技術職)
・「地獄ツアーに行ってみたい」(26歳/運輸・倉庫/事務系専門職)

ということで・・・地獄めぐりが第七位になりました~!!や~栃木県民として嬉しいし、マルコの書いたものを多くの人が見てくれていたような気がして、感謝感激です!!
マルコ  投稿日時 2013/5/26 15:42
第116回企画展 「日光山の今昔」平成18年4月7日(金)~平成18年6月7日(水)
1999年12月ユネスコの世界遺産に登録され、国内ばかりでなく外国からも多くの観光客が訪れる日光は、奈良時代に霊地として開かれてから1200有余年、信仰の山としての古い歴史があります。
 日本の地に人が住み始めて以来、この国には独自の信仰がありました。人知を超えた大いなる力を「神」として怖れ敬う原始的で素朴な信仰です。6世紀になり大陸から「仏教」が伝来すると、教理の整った「仏」の教えに「神」の信仰は融合していきます。「神仏習合」すなわち仏教の「仏」が日本古来の「神」を取り込み同化し、仏教と神道とが共存するおおらかな信仰が生まれました。神社の中にお寺が建てられ、山に分け入り修行をする者が場合に応じてお経を誦し祝詞をあげました。仏教と神道、修験道などが渾然一体となり信仰される、日光の歴史はまさにその神仏習合の歴史に他なりません。
 鎌倉時代には源頼朝の篤い信心を受け、その後豊臣秀吉に攻められて疲弊しますが、江戸時代、徳川幕府・将軍家に護持されて「日本国」の聖地へと飛躍します。明治になると、仏教と神道が分離せられる政府の新政策によって神仏習合の歴史に終止符が打たれ、現在の「寺社(輪王寺・二荒山神社・東照宮)」のありように変わりました。
 日光山は、1200年の時代を超えて、その時々の流れの中で浮き沈みを繰り返し、形を変えながらも、信仰そのものから或いは建造物や宝物を通してその歴史を脈々と現在にまで伝えてきています。
 この度、平成の「今」から遠い奈良の「昔」まで、時代を通して受け継がれてきた信仰の歴史を感じて頂けますよう、時代を追って寺宝の一部をご紹介いたします。日光の今昔、その一端をご覧下さい。

ということで 寂光寺釘念仏縁起の絵が輪王寺に伝わってい手、たまに一般公開しているみたいです。
マルコ  投稿日時 2013/5/26 15:37
百物語より引用。
むかしむかし、日光(にっこう)の寂光寺(じゃっこうじ)というお寺に、覚源上人(かくげんしょうにん)というお坊さんがいました。

 ある日の事、上人(しょうにん)は、横になって休んだままの姿で死んでしまったのです。
 しかし、上人の体はまるで生きているように温かく、肌も普通の色です。
 確かに息もしていませんし、心臓も止まっているのですが、普通の死人とは違います。
「・・・どうすれば、いいだろう?」
 人々は困ってしまい、どうしたものかと考えているうちに十七日が過ぎてしまいました。
 すると突然、上人がパッチリと目を開けたのです。
「おおっ! 開いたぞ、目が開いた。生き返ったぞ!」
 上人は心配そうに集まっていた人々を見まわして、今の状況を理解しました。
「どうやら、わしは今まで死んでいたようだな。みなさん、ご心配をおかけしてすまなかった。実はわしは、たった今、めいどの旅から帰ってきたところなのじゃ。ちょうどよい、みなさんにぜひ話しを聞かせたい」
 そう言って、上人は不思議な話しを始めました。

「ふと気がついたわしは、雲に乗ってまっ暗闇の中を、どこまでもどこまでも進んで行ったんじゃ。
 すると、炎に包まれた山門(さんもん)があってな、そこには鬼が立っておった。
 これが有名な地獄門(じごくもん)だと、わしは思った。
 門をくぐるとそこは閻魔(えんま)堂でな、閻魔大王の前には大勢いの人々が並んでおり、その人々を閻魔大王が裁くのじゃ。
 一番前の男が閻魔大王の前に引き出されると、こう言った。
『大王さま、あっしは地獄に落ちる様な事は、何もしちゃぁー、いませんぜ』
 すると閻魔大王は、恐ろしい声で怒鳴った。
『黙れ! お前は犬を三匹、ネコを六匹、殺したであろう!』
『へい、確かに。・・・しかし、犬やネコを殺しても、地獄へ落とされるんで?』
『当たり前だ! 例え虫一匹とはいえ、命のありがたみは人間と同じ、面白半分で殺せば罪となる。お前は地獄へ行き、五百年間、鉄棒で打たれ続けるがよい!』
 閻魔大王が言うと鬼たちがやって来て、その男を引きたてて行ったんじゃ。
『次、前に出い!』
『へん! どうとでも好きにしろ! 地獄行きは覚悟の上だ』
『そうか。お前の様に反省の色がない奴が、もっとも罪が重い。お前が行くのは黒縄地獄だ。そこで一千年の間、熱く焼かれた鉄の縄で体をしばられ続けるのだ。よし、次!』
 こうして閻魔大王は、地獄に落ちた人間を次々に裁かれていってな、そしてとうとう、わしの番が来たんだ。
 すると閻魔大王は、こう言ったのじゃ。
『覚源(かくげん)よ、お前をここへ呼んだのは、罪人(つみびと)としてではない。
 お前も見ておったように、近ごろは地獄へ来る人間の数がふえるばかりだ。
 これは、生前に悪いことをすれば、死後に地獄へ落ちるということを忘れているからではなかろうかと思ってな。
 そこで人々に説教(せっきょう)する役目のそなたに、地獄の恐ろしさをよく見てもらって、ここへくる人間が一人でも少なくなるよう、人々に話してもらいたいのじゃ』
と、言うわけで、わしは地獄巡りをする事になった。
 地獄ではな、どんなに苦しくても死ぬ事は出来んのじゃ。
 たとえ体を切りさかれても、いつの間にか元へ戻っていて、永遠に苦しみが続くのじゃ。
 重い荷物を背負って、針の山を登って行く人々。
 熱い血の池で、もがき苦しむ人々。
 地獄にはそんな人々の叫び声や、うめき声が続いておる。
『よいか、死んでまでこんな苦しい思いをする事はない。人間は、こんなところへ来てはならんのだ』
と、閻魔大王が言うたんじゃ。
『よくわかりました。この覚源、残る人生をかけて、一人でも地獄へ来る人間が少なくなりますように、説教を続けましょう』
 閻魔大王にこう約束して、わしは地獄から帰ってきたのじゃ」

 その後、上人は一人でも多くの人が地獄の苦しみから救われるようにと、地獄の話を語ったという事です。
マルコ  投稿日時 2013/4/13 18:20
馬郡美保子(まごおり・みほこ)さん 女性の方・・・当たり前か・・・。 
職業 映画/TVスタッフで代表作によなよなペンギン 源氏物語 銀河鉄道の夜 だそうです。
杉井ギサブロー 馬郡美保子 さんって所属事務所が同じなんですかね・・・何かしら、関係がある気がします・・・。
マルコ  投稿日時 2013/4/6 19:56
寂光院の名前の由来となった寂光の滝について・・・。

 田母沢川-たもざわがわ-にそそぐ沢に落ちる滝。このあたりに昔、寂光寺-じゃっこうじ-があったことから名がついた。寂光寺は弘仁-こうにん-11(820)年に弘法大師-こうぼうだいし-が開基したと伝えられる。江戸時代には寂光権現-じゃっこうごんげん-、拝殿、不動明王堂-ふどうみょうおうどう-などが立ち並び、修験道-しゅげんどう-・浄土信仰の中心地として栄え、釘抜-くぎぬき-念仏発祥の地として、その名を知られている。
明治4(1871)年の神仏分離で寂光権現が廃され、寂光が若子-じゃっこ-に改められて若子神社に。滝に向かう途中、池石-いけいし-(生石-いきいし-)と呼ばれる巨石がある。

マルコ  投稿日時 2013/3/16 21:05
覚源上人を思い出して懐かしむ人が生きている間は良いだろう。懐かしんで墓参りをしてくれる人がいるということだから。しかし、その人もまた亡くなってしまって、言い伝えを知るだけの後の世の人々はしみじみと懐かしむだろうか、いや、決して、思わない。

上人の墓参りをする者がいなくなってしまうから、間もなく墓石に苔が生え、この葉が降り積もって、夕暮れの激しい山風、夜の月影、川のせせらぎだけが訪れる縁者であったことだよ。

果ては、上人の墓があった跡さえ無くなってしまうのは悲しいことである。

寂光院の七堂伽藍は灰塵に帰す。
再び再建される事無く、其の跡、将に蓬茅に埋もれんとす。
訪れる者、既に無く、山中に鳴く鹿の声までも寂しげであることだ。
マルコ  投稿日時 2013/2/7 15:06
この話が始まった時、怖い顔のお不動様の絵が出てきました。
マルコが若子神社へ行った時、寂光院跡地に苔むしたお不動様の石像があったのですが・・・何かの偶然ですかね・・・?
まんが日本昔ばなしの作画の方が現地で取材をして、作画をしたんでしょうかね・・・?
マルコ  投稿日時 2013/2/7 14:28
まん日のDVDを借りてきて「地獄めぐり」を見たところ、このお話の語りは常田富士男さんでした。
主人公の覚源上人が市原悦子さん。閻魔大王が常田富士男さん。医者・権六・十郎太・お春が市原悦子さん。という配役になっていましたよ。
マルコ  投稿日時 2012/11/3 21:17
地獄めぐりの舞台である「若子神社」に行ってきた時(地図で言うと195号の道の奥にある方の神社)道の途中に大きな岩がありました。(将軍茶屋の近くの方の若子神社の所)気になったので車を降りて、岩の前にあった立て札を見たところ・・・「この岩の上に窪みがあり水を湛えているので「池石」と呼ばれた。この窪みに溜まった水は、あたかもこの岩が生きているかのように、一年中枯れた事が無い所から「生石」とも呼ばれた。池石の水かき回すと、雨が降るというという言い伝えがある。また、この石は若子神社の逢拝所(前立)であり、石の水が尽きないように無限の財益を授けると言われている。」・・・と書いてありました。

興味津々で岩によじ登って窪みを覗いてみると・・・落ち葉と泥で窪みが埋まっていました。余計な事とは判っていたのですが・・・窪みの中の落ち葉と泥を掃除してしまいました・・・。
岩の近くにあった「将軍茶屋」は閉店してもう何年も使われていない様子・・・若子神社に訪れる人が少ないんでしょうね・・・。
マルコが岩の窪みを掃除した時、窪みの中に溜まっていた泥水をかき回しました。
そうしたら・・・言い伝えの通り、雨が降りましたよ!!ただの偶然かもしれませんが、言い伝えは本当だったという事にしたいと思います。

この昔ばなしの主人公?である覚源上人のお墓は寂光滝への上がり口、若子神社鳥居の左方向を流れる寂光川を渡った山の中腹にあって、墓石は一メートルほどの高さです。
覚源上人のお墓は昭和三十年頃まで藪の中に埋もれており、それを知る者は誰一人いなかったそうです。ところが、1950年代に樵?炭焼き?さんによってお墓が発見され、世間の人の注目を引く事になったそうですよ。
なんだか可哀相な事ですよね・・・。長い間、誰にも知られず藪の中に埋もれていたなんて・・・。さぞや、寂しかったでしょね・・・。
もし、若子神社に行く機会があったら覚源上人のお墓参りを是非してあげてください!!

それから、覚源上人が閻魔大王から渡された御札について調べてみました。
現在、この御札は「釘念仏札」と呼ばれていて「日光山輪王寺 常行堂」という所でいただけるようです。なんでも「念仏を唱えて、寂光寺の釘抜念仏の御札を持ってあの世に行くならば、閻魔大王が極楽浄土に導いてくれる。」と言われており、「釘抜念仏」の信仰は、日光地方をはじめ、関東、東北、北陸、さらには九州までの広い地域まで伝わっていたらしいです。

本当かなぁ~?マルコは長い事、栃木に住んでいますが・・・「釘抜念仏」の「釘」の字も知りませんでしたよ・・・。
ちなみに、今でも日光の人たちはお葬式の時、亡くなられた方の御棺にそっとこの「釘抜念仏の御札」を納めるのが通例だそうです・・・。
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