No.0560
さぎのみや
鷺宮
高ヒット
放送回:0350-B  放送日:1982年07月17日(昭和57年07月17日)
演出:大竹伸一  文芸:沖島勲  美術:高松良己  作画:大竹伸一
写真あり / 栃木県 ) 37002hit
あらすじ

昔、下野の国に小さな村があった。この村には、沢山の白鷺(しらさぎ)がいた。

ある年の事、ひどい日照りが続き、田んぼも井戸も干上がってしまった。雨乞いも不発に終わり、すっかり途方に暮れていた村人たちが、森のほうに集まっている白鷺の群れを見つけた。白鷺は水のある所に集まるというので、村人たちは森の中にある沼に行ってみた。

やっぱり森の沼も干上がっていたが、沼底が一か所だけ湿っている部分があった。きっとこの下には水があるだろうと考えた村人たちは、沼の底を掘り進めた。沼底の硬い岩を一晩かけて打ち砕くと、水が巨大な水柱となって天高く噴き出した。

村人たちは、白鷺たちのおかげで村の全滅を防げたと、沼のそばに小さな社(やしろ)を立てた。その社を「鷺宮」と呼び、いつまでも大事にした。

(紅子 2011-9-13 1:05)


ナレーション常田富士男
出典栃木県
DVD情報DVD-BOX第6集(DVD第30巻)
現地・関連お話に関する現地関連情報はこちら
場所について白鷺神社
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地図:白鷺神社
追加情報
本の情報講談社テレビ名作えほん第050巻(発刊日:1981年6月)
講談社の300より書籍によると「栃木県のお話」
このお話の評価8.4444 8.44 (投票数 9) ⇒投票する
※掲載情報は 2011/9/13 1:05 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
10件表示 (全13件)
日清皿太夫  投稿日時 2022/1/2 17:55
 業務連絡みたいになります。時代劇専門チャンネルで放送されたHDリマスター版を観ていますが、各話のタイトルで表記のある演出・美術・作画スタッフのほかに、エンドクレジットにおいて
制作担当/色彩設定/仕上(セルの彩色か)/タイトル/ミキサー/選曲/効果/録音(新坂スタジオ,アバコスタジオ)/音楽制作/撮影/ビデオ編集/協力(亜細亜堂とあかばんてん)/制作協力(グループ・タック)
 も表記があります。仕上と撮影で虫プロ、ぎゃろっぷ、マッドハウスの表記を見つけてニヤっとするか驚くか。一話ずつ観ていると分からない事もあるものです。

 「鷺宮」は自然のメッセージに耳を傾けようという教訓も含まれる良い話。言い伝えをバカにせず、そこに含まれる一片の真実に賭ける人々の姿を汗臭さ少な目に描いて、万人に呑み込み易そうな回と思います。
 視聴出来た他の回に比べてフィルムが傷んでいるのか撮影時のカメラの不調によるものか、画面の微細な横揺れが目立ちました。DVDに同様の症状があるかどうかは知らないけれど、もしかしてリマスター(原版の取り直し)ではなくリストア(修復)が必要?
ゲスト  投稿日時 2015/11/11 21:33
上三川町(かみのかわまち)は、栃木県南部に位置し、河内郡に属する町である。現在、河内郡で唯一の自治体となっている。
歴史
律令制で 和名類聚抄によると、当時 河内郡(かわちぐん)管内には丈部(ハセツカヘ)、刑部(オサカヘ)、大續、酒部(サカヘ)、三川(ミカハ)、財部(タカラヘ)、眞壁(マカヘ)、輕部(カルヘ)、池邉(イケノヘ)、衣川の10郷があった。
三川(ミカハ)郷が、上三川・中三川・下三川に分かれ、現在、上三川 地域となる。
江戸時代には幕府・旗本(東館村、西木代村、上神主村、下神主村、三軒在家村、東蓼沼村、大山村、梁村、川中子村、坂ノ上村、五分一村、三村、三本木村、上三川村、上蒲生村、上郷村、橋本村)、
宇都宮藩(小里村、西汗村、東汗村、上文挾村、磯新田、石田村)、
下総関宿藩(鞘堂新田、西蓼沼村、多功村(多功宿)、下蒲生村) 等の所領となった。
明治時代以降
時期不明 - 東館村は、上三川村のうち。
1874年(明治7年)- 橋本村・三軒在家村・小里村が上郷村に編入。
1876年(明治9年) - 磯新田が磯岡村にそれぞれ改称。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、
本郷村 ← 上郷村、東蓼沼村、西蓼沼村、東汗村、西汗村、上文挟村、西木代村、磯岡村
上三川村 ← 上三川村、上蒲生村、下蒲生村、三村、五分一村、坂ノ上村、三本木村
多功村 ← 多功村、梁村、川中子村、大山村、上神主村、下神主村、石田村、鞘堂新田
上三川村・本郷村(ほんごうむら)・多功村(たこうむら)が発足。
1891年(明治24年)12月26日 - 多功村が改称、明治村(めいじむら)となる。
1893年(明治26年)7月1日 - 上三川村が町制施行、上三川町となる。
1955年(昭和30年)4月29日 - 上三川町・本郷村・明治村が合併し、新しい上三川町が誕生。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%86%85%E9%83%A1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%B8%89%E5%B7%9D%E7%94%BA
ゲスト  投稿日時 2015/11/11 20:29
白鷺神社の近くにあります。神社より古い遺跡。

上三川町八龍塚古墳 「上三川1号墳」
栃木県河内郡上三川町上蒲生字峰町30
本古墳は、普門寺と上三川町役場の中間にあります。(普門寺の西北、上三川町役場の東南) また、上三川小学校の北500mほどのところでもあります。
遺構概要
古墳(前方後円墳(帆立貝式))、古墳(中期か)。<立地>台地西縁平坦部。
八龍塚古墳、県通番号1281-1、町番号59-1、県埋文地図
八龍塚古墳(上三川1号墳) 前方後円墳(帆立貝形墳) 全長約46m、後円部径約29m、同高さ約5m、前方部幅16m 上三川 台地 円筒埴輪 上三川町史
八龍塚古墳 前方後円墳(帆立貝形墳) 全長40m、後円部径29.5m、同高さ4.6m、前方部幅10m 上三川 台地 円筒埴輪 探訪とちぎの古墳
東から後円部。民家庭先にあり許可をいただき近くから撮影。埴輪などから5世紀末の築造と推定されている。後円部墳頂。後円部から前方部。尻尾のように細く低い形状。
http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/index.php/kmikawa_hatiro/
http://www.isekiwalker.com/iseki/235024/
ゲスト  投稿日時 2015/11/11 20:13
木上山妙覚院普門寺(天台宗)【住所】栃木県河内郡上三川町大字上三川5117【電話】0285-56-2220
普門寺は1473年に上三川城代の上三川綱親によって建立された寺院です。上三川城の落城とともに一時衰退しますが、後に上三川を支配した烏山城主の成田泰親によって修繕され、現在に至ります。なお、江戸時代の初めに泰親が寄進したとされる駕籠と樹齢300年といわれるイチョウは町指定文化財となっています。
●上三川七福神パンフ
普門寺は、本尊十一面観世音菩薩、新下野観音第1番札所、下西国22番札所、町指定文化財駕籠、町指定文化財お葉つき夜哭き子育銀杏、鳴き竜(藤原洞泉安富作)、厄除け元三大師、秘仏蛇体仏、賽の河原子育水子地蔵尊、願掛け六地蔵尊があり、かつては武者小路実篤先生、高浜虚子先生も当山を訪れている。
http://10.pro.tok2.com/~a11234842/973.kaminokawa.humonnji.html

■普門寺
町指定天然記念物 推定樹齢は当時290年だから、現在だと樹齢300年を超えている。
▼お寺の説明板 ▼下野名勝百選 ▼お葉つき・夜哭(な)き・子育て大銀杏由来と伝説
▼その昔、このあたり一帯は銀杏の大樹がうっそうとおい茂っていた。その中の老樹が毎夜気味悪い唸り声をあげて哭くようになったので里人は「夜哭(な)きいちょう」と呼び、恐怖の毎日を過ごしたそうです。
たまたま上三川城中にも異変が相次ぎ、城主越中守綱親公も、ご自身が戦死なさる悪夢を見られた。
時はまさに戦国時代で、最愛の部下を失い、敵も倒した罪の深さを痛感され、我が身と、もろ人の後生を願った城主は、信俊と申される天台僧を懇請して夜哭き銀杏を供養ののち切り倒したところ、空洞の中からよろい、武器等とともにとじこめられていた300有余ひきの大蛇が嬉しげに現在の本堂の方向の草むらに姿を消した。綱親公は御自身の蛇体仏を彫刻され、一宇を建立し、銀杏の木があった上三川の寺であるから木上山妙覚院普門寺と名付け、本尊を十一面観世音菩薩として本堂間口十一間とし、文明5年11月10日落慶、信俊大和尚を開山さまとした。足かけ5年ののち文明9年9月1日綱親公は群馬県川曲りの戦いに出陣し、上杉憲忠と戦い吾が子保業・清業と共に夢知らせのごとく討ち死にされました。
その後、切り倒した夜哭き銀杏の後葉が、すくすくと成長し、葉の先に実がなる世にも珍しい銀杏となり、里人は、綱親公の化身(権化)が吾が子を護るような姿で、お葉つき銀杏となって花実をつけたのだと信じ、雌の銀杏であるところから「子育て銀杏」とも言われ、代々語り伝えられ、子育て信仰の霊木として崇拝されている。
http://10.pro.tok2.com/~a11234842/973.kaminokawa.humonnji.ityou.html
ゲスト  投稿日時 2015/11/11 19:56
上三川(かみのかわ:栃木県河内郡)
とちぎん博士「上三川」というと、まず最初に思い浮かぶことって何ですか。「神社やお寺が多いことかな...それに、川も多いですね、博士」。そのとおりです。街には、白鷺神社や満願寺などたくさんの名所旧跡があります。*"七福神めぐり"だってできるんですよ。「ええっ、博士、七福神って...恵比寿様や大黒様のことでしょう」。そうです。みなさんも街を散策してみましょう。おもしろい発見が待っていますから...。
さて、本題に入りましょう。上三川の地名のルーツ探し...。先ほど、街には川が多いと言いましたが、上三川の字が示すとおり、ヒントは川です。「博士、神の川がルーツですか」。七福神と結びつけましたね。それはおもしろい。でも...。「ということは、他に?」。「三つの川ですか、博士」。そのとおりです。街は、かつて「三川の郷」(みかわのごう)と呼ばれていました。三川とは、鬼怒川、田川、江川と言われています。三川の郷は、その後、上三川・中三川・下三川に分かれ、最終的には、上三川の地名だけが残った...と。「博士、自然がそのまま地名に、ということですか」。地名は自然と密接な関係がありますが、上三川は、まさにその典型でしょうね。
 「博士、街の歴史は古いんですか」。そうですね、町に人が住むようになったのは縄文時代以前といわれています。中世の頃には、上三川城(白鷺城)と多功城があり、街は、城下町として繁栄しました。「城下町か、にぎわっていたんでしょうね、博士」。そうですね。豊かな自然と古い歴史という恵まれた環境で、人々は活気ある町つくりをしてきたと言えるでしょうね。日産自動車の工場がある町、新4号国道が走る上三川は、いま首都圏の重要な流通の基地として発展を続けています。“住みよく、暮らしよい田園工業都市”が、街のキャッチフレーズなんですよ。「博士、自然と産業のバランスのとれた街なんですね」。そういうことですね。
*寿老人(西念寺)・恵比寿(宝光院)・毘沙門天(見性寺)・布袋尊(延命院)・福禄寿(普門寺)・大黒天(善応寺)・弁財天(長泉寺)
http://www.tochigibank.co.jp/f801/origin/kamino.html

沿革
上三川町では、近年の発掘調査で旧石器時代や縄文時代の遺跡が確認されており、かなり古くから人々が生活していたことがわかっています。
古墳時代には、前方後円墳や大型円墳、方墳が数多く造られ、奈良時代以降も上神主・茂原官衙遺跡や多功遺跡といった河内郡の役所と考えられる遺跡が存在するなど、 古代から河内郡の中心として一早く栄えていたことがうかがえます。
上三川の地名も、当時の河内郡内にあった三川郷に由来するものといわれています。
鎌倉時代に入ると、宇都宮城主宇都宮氏の南の砦として、宝治2年(1248年)に多功城が、建長元年(1249年)には上三川城が相次いで築城されましたが、 慶長2年(1597年)に宇都宮氏内部の争いから、上三川城が真岡城主の芳賀高武によって攻め滅ぼされたのをきっかけに、宇都宮氏が、改易になった後、江戸時代は町内の大部分が幕府や多くの旗本、宇都宮藩、関宿藩などの所領となり、そのまま明治時代を迎えました。
明治22年の町村制施行で、上三川、本郷、多功の3村が誕生しましたが、多功村は同24年に明治村に改称、同26年には上三川村は町制施行し、上三川町となりました。
昭和30年4月29日、町村合併促進法により、上三川町、本郷村、明治村が合併し、現在の町域を有する新上三川町が誕生しました。
昭和40年代に入り、日産自動車を誘致するとともに人口が急増し、農業を中心とした町から、田園工業の町へと歩み始めることとなりました。

上三川町の鳥『しらさぎ』(昭和51年11月1日告示第15号)
上三川町の鳥しらさぎ町内に多く飛来し、水田や河川や畔などの浅い水中で魚、カエルなどを捕食します。冬期南方に渡りますが少数は越冬し、あるいは、繁殖します。緑の自然のなかに白く映えるしらさぎの美しさはいうまでもなく、舞う姿の優雅さは広く人々の心をなごませてくれます。
かつて上三川城は白鷺城といい、白鷺神社などしらさぎに由来するものがあります。
http://www.town.kaminokawa.tochigi.jp/indexpage/profile.htm
ゲスト  投稿日時 2015/11/11 17:15
ほのぼのするいいお話です。水の張った水田と白鷺と村人、絵が素晴らしかったです。
マルコ  投稿日時 2014/2/22 20:03
水を教えた白さぎ
〔上三川町(かみのかわまち)〕

昔、三川の村でしばらく雨が降らずに人々が困っていました。
郷倉(ごうぐら)に備えてあった米も底をつきはじめたころ、東北(とうほく)の大井沼(おおいぬま)のそばの森から、大きな水柱が、天に昇っているではありませんか。
その水柱は、何百という白鷺(しらざき)の群れでした。
里長は、早速みんなでその場所を掘らせました。
すると、水の柱が空高く吹き上がりました。
三川の里人たちは、やしろを建ててあがめました。
それからも夏になると、このやしろの森に白鷺が舞い降りてくるそうです。

http://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=153
より

マルコ  投稿日時 2014/2/22 19:54
このお話に登場する『鷺宮』こと『白鷺神社』のある上三川町は、お話の伝える通り白鷺を今でも大切にしている町です。

白鷺神社をはじめとしてしらさぎマラソン大会、しらさぎ幼稚園など・・・とにかく町全体が白鷺だらけの町です。

詳しいことが知りたい方は、栃木県上三川町で調べてください

上三川町公式サイト

http://www.town.kaminokawa.tochigi.jp/

白鷺神社公式サイト

http://www.shirasagi.or.jp/index.php
マルコ  投稿日時 2013/6/17 22:02
白鷺神社ホームページより引用 

延暦二年(783)、疫病〔えきびょう〕が大流行した時、国守平松下野守(文野高島)が日本武尊〔やまとたけるのみこと〕の神託によって、疫病退散の祈願のため一祠を建てて祀ったのが始まりと伝えられています。
御祭神(日本武尊)は、代十二代景行天皇の御子として、日本が一つにまとまり、豊な国となるよう全国を旅されました。
それは、人々の平安を祈りながらの旅でありました。命がお亡くなりになられた後、白鳥と化して飛び立ったことから、白鳥が飛来し、人々の生活を見守った話など、命に関する話は数えきれないほど伝えられています。
後世になり、建長元年(1249)、横田頼業が上三川城を築城した時、宇都宮の二荒明神の祭神 豊城入彦命を勧誘して相殿に祀りました。
康暦二年(1380)小山義政が上三川城を攻めた時、明神の森に群れて飛交う白鷺を多くの旗と見誤り、戦わずして退去し、その時より、白鷺明神と云われるようになったとの逸話が残っています。
平成元年より大改修事業を行ない、平成四年秋には、御本殿改修を始め、拝殿・神門・手水舎・社務所等の新築、及び境内の整備が完成し、白鷺神社の名に相応しい、優雅で荘厳なご神域となりました。また、平成十五年(2003)には御鎮座1220年を迎え、記念事業として「平和の剣」「翔舞殿」を奉納致しました。
日本武尊の御神徳益々篤く、地域内外の多くの氏子・崇敬者の方々に信仰されています

大駐車場完備
北関東自動車道、宇都宮上三川 ICから車で5分
JR石橋駅から車で10分
関東バス、JR宇都宮駅から30分
白 鷺 神 社 栃木県河内郡上三川町しらさぎ1-41-6
TEL.0285-56-4553 FAX.0285-56-6491
E-mail:ueno@shirasagi.or.jp

マルコ  投稿日時 2013/2/8 0:18
もし、白鷺神社に立ち寄ったのなら、近所に「上三川城址公園」があるので是非立ち寄ってみてほしい。
上三川城は建長元年(1249)から慶長2年(1597)までの350年にわたり栄えた中世の平城。城主は横田氏、今泉氏の二期に区分され、現在はその城跡を利用した美しい公園となっています。東西90m、南北100mほどの方型の土塁に沿って遊歩道も整備され、交通の至便な場所に位置することから町民の憩いの場となっています。また、花の名所でもあり、サクラの咲く季節には、「花まつり」が開催され、ツツジの季節には朱色と新緑があざやかなコントラストをつくりだします。

「鷺宮」にふさわしい「上三川城」にまつわるこんなお話もあります。

康暦二年(1380)小山義政が上三川城を攻めた時、明神の森に群れて飛交う白鷺を多くの旗
と見誤り、戦わずして退去し、その時より、白鷺明神と云われるようになったとの逸話が残っています。

本丸は公園となっています。土塁の周辺にはかなり巨大な石で組まれた石垣堀。周辺も遊歩道になってきれいに整備されていました。城跡というよりは、立派な日本庭園?みたいな感じで、入口には模擬復元門があったり、城の堀には鯉やら鴨やらがのんびり泳いでいました・・・。
近くには「上三川ふれあいの家ひまわり」や「学校法人木村学院」があり、マルコが城跡を散策している間も可愛らしい子供の声が聞こえてきましたよ・・・。しかし、近くにこんなに良い遊び場があるなんて素敵ですね。多分、子供たちはお散歩の時間に「上三川城」に遊びに来ていると思います。周りをぐるりと城壁で囲まれているので、城から外に出るための門の所に保育園?幼稚園?の先生を監視として置いて、城の中で子供たちを自由に遊ばせておけば、安全じゃないですか?そう思いません?私だったらそうします。
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