No.0459
ようらくつつじ
瓔珞つつじ

放送回:0287-B  放送日:1981年05月02日(昭和56年05月02日)
演出:小林治  文芸:沖島勲  美術:なかちか東  作画:小林治
山梨県 ) 19164hit
あらすじ

昔、富士の裾野に松五郎という炭焼きが住んでいた。松五郎は力も強く、心優しかったが嫁がいなかった。

松五郎が炭を焼いたかまどからは、白い煙が立ちのぼって、風のない日には遠い都からも見えた。都の皇女さまは、その煙を見て不思議に思い占い師に尋ねた。占い師は「あの煙は、皇女さまの婿となる方が、かまどから出している。きっと東国一の大金持ちでしょう」と言った。

皇女さまは、その煙へ向かって何日も歩き続けた。明日には着くという所で煙は消えてしまった。ちょうどその時、松五郎は用事ができて故郷の「明日見」に帰っていた。皇女さまと付き人が、松五郎の小屋にたどり着いた時には、誰もいなかった。

出会った人に松五郎の行方を尋ねると「明日見にござっしゃる」と、言ったので富士の裾野で野宿して帰りを待つ事にした。次の日、小屋に行ったが誰もおらず昨日の人に聞いたら、また昨日と同じ事を言ってきた。二人は、明日見にを明日見に来いというのと間違えていた。

次の日に、二人はやっと会えた。付き人は、会えたお礼に小判を渡したが、松五郎はその小判を鴨を仕留めるのに使ってしまった。皇女さまはそんな松五郎が気に入り、とうとう結ばれることになった。式の時に皇女さまが被った冠は、瓔珞の冠といって、美しい飾りが垂れ下がったものだった。

その後、松五郎は名高い炭焼き長者となって、何年も不自由なく暮らした。しかし、ある日皇女さまが重い病にかかり、日に日に病はひどくなっていった。皇女さまは「私が死んだら、あの瓔珞の冠を峠に埋めてください」と言って、その七日後に無くなってしまった。松五郎は、遺言どおり瓔珞の冠を峠に埋めた。

そこは皇女さまが松五郎に会う数日前、都に向かってお別れを告げた場所だった。それからの松五郎はぼんやりと山を眺めて暮らす日が多かった。春が来て峠に登ってみると、そこには瓔珞に似て美しいつつじが垂れ下がっていた。そこで松五郎は、皇女さまの後を追うように死んでいたのだった。

松五郎が最後に見た景色は、皇女さまが都に向いお別れを告げた時と同じだった。それからは村人がそのつつじの事を、瓔珞つつじと言うようになったのだった。

(投稿者: KK 投稿日時 2012-10-14 15:05 )


参考URL(1)
http://fujinomiya.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E7%93%94%E7%8F%9E%EF%BC%88%E3%82%88%E3%81%86%E3%82%89%E3%81%8F%EF%BC%89%E3%81%A4%E3%81%A4%E3%81%98%E4%BC%9D%E8%AA%AC
ナレーション常田富士男
出典山梨県
場所について富士宮市の天子ヶ岳
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地図:富士宮市の天子ヶ岳
追加情報
本の情報国際情報社BOX絵本パート2-第094巻(発刊日:1980年かも)
講談社の300より書籍によると「山梨県のお話」
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※掲載情報は 2012/10/15 3:45 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
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Perenna  投稿日時 2019/1/3 13:20
炭焼き松五郎さんと皇女さまの昔話は、昭和18年に出版された「駿河の伝説」に「天子ヶ嶽の躑躅」という題で収録されていました。(コマ番号118/172)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1062600

松五郎さんの故郷は甲州明日見村で、住んでいたところは富士郡柚野(ゆの)村と書かれています。
明日見村は現在の山梨県富士吉田市大明見・小明見、柚野村は静岡県富士宮市上柚野・下柚野らしいです。

ところでこの昔話を見ていてなんとなく、眞子さまと小室さんのことを連想してしまいました。
小室さんも松五郎さんみたいに、貧乏でも額に汗水たらして働くような真面目な人物だったら、われわれ国民も納得して心から祝福できたのになと思いました。
Perenna  投稿日時 2019/1/2 23:01
「天子ヶ岳の瓔珞つつじ」についていろいろと調べてみました。
「明治新撰駿河国誌」(明治30年)には次のように書かれています。(コマ番号28/103)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765155/28

「天子ヶ嶽 或はきりう山といふ
山下に古塚あり何人を葬りしを知らず或は云古皇女の塚なりとこれに関し里傳あれとも信じ難し塚側に躑躅(つつじ)の大樹あり里人呼で瑶珞躑躅といふ」

「地理教育:富士登山唱歌」(明治42年)には以下のように書かれています。(コマ番号11/25)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/855711/11

「天子ヶ岳ハ山上ニ古塚アリ是昔皇女ヲ奉葬シタルナリト其躑躅ハ花冠瓔珞ニ似タル奇花ヲ開クヲ以テ其名高ク其ノ山麓白糸村内野ニハ長者ヶ池(一名田貫沼)ト称スル小湖アリ是尹良親王ノ館趾ナリト傳フ」

同じ明治42年に出版された「富士駅名所案内」には皇女ではなく、源頼朝の妻の伝説として別伝が載せられています。(コマ番号7/28)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765279/7

「山嶺に古塚あり何人を葬りしを知らずと雖も或は云ふ源頼朝公の妻上つ方より来られし高位の御姫君にして御滅後には此山嶺の葬れりといふ当時紀念として十三輪の躑躅を植ゆ今は繁茂して大樹となれり里人呼で瓔珞躑躅といふ」

さらに大正15年出版の「山行記」には、やはり皇女の伝説として次のように出ています。(コマ番号106/234)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020508/102

「昔、ある皇女が、皇子を慕ふて此處まで来て遂に逝かれたので、里人これを悲しみ京都に面するの場所に葬つて、その瓔珞の冠を祠前に埋めた。これに生へた躑躅が、即ち今祠前にある瓔珞躑躅である、といふ傳説である。」

天子ヶ岳には、源頼朝や宗良親王にまつわる伝説があるようです。
皇女のお婿さんの炭焼きの松五郎の話が、いつごろから伝承されるようになったのか?たいへん興味がありますね。
ゲスト  投稿日時 2016/12/1 20:58
この皇女様は都の華やかな暮らしも身分も捨て
両親に勘当されることを覚悟のうえで
好きでもない男性と愛の無い結婚ではなく
相手の身分は低いが愛のある結婚を選びました。
皇女様は愛する人と汗水流し働き、
一緒に暮らせて幸せだったと思います。
松五郎も同じでしょう。
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