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No.0278
いのこまつり
亥の子まつり
高ヒット
放送回:0173-A  放送日:1979年02月17日(昭和54年02月17日)
演出:小林治  文芸:沖島勲  美術:小関俊之  作画:須田裕美子
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地主のたくらみにはまって死んだイノシシの話

昔、天草のある村に、金貸しの地主とその娘が住んでいました。この地主が持つ土地にはでっかい大岩があって、動かすこともできずいつも苦々しく思っていました。

ある時、「大岩を動かした者には娘を嫁にやる」と、村中に触れ回りました。しかし、地主の娘など誰も欲しがらず、一匹のイノシシだけが集まってきました。怒った地主は「娘と全財産をやる」と村中に触れ回ると、今度は大勢の力自慢の男たちが大集合してきました。

しかし、どんな怪力の大男にもこの大岩を動かせず、結局あのイノシシだけが岩を動かしてしまいました。さずがの地主も今さら断るわけにもいかず、仕方なく娘に晴れ着をきせて、嫁に出すことにしました。

喜んだイノシシは、娘を背中に乗せて山に向かって走り出しました。しばらく走った所で、娘は晴れ着のたもとから火打石を取り出し、イノシシの背中に敷いていたワラに火をつけました。火だるまになったイノシシは、崖から落ちてそのまま死んでしまいました。

この話を聞いた村人たちは「いくらなんでもイノシシが可哀そうだ」と言って、旧暦10月最初の亥の日に、亥の子祭りを行うようになりました。

(紅子 2011-12-6 20:32)


参考URL(1)
http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/tomozuna.html
ナレーション市原悦子
出典浜名志松(未来社刊)より
出典詳細天草の民話(日本の民話47),浜名志松,未来社,1970年03月20日,原題「亥の子まつり」,採録地「鬼池」,話者「林留市」
場所について鬼池エリア(地図は適当)話者
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地図:鬼池エリア(地図は適当)話者
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※掲載情報は 2011/12/6 20:32 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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帰ってきたアーリアジャスール  投稿日時 2020/1/26 9:56
イノシシが可哀想すぎ
猪子  投稿日時 2013/10/15 18:54
 旧暦十月、亥の日の亥の刻に行われ、亥の子の祝い、単に亥の子、また亥猪(げんちょ)とも言います。稲の収穫祭として亥の子の神を祭る西日本に多く分布する行事です。

 猪の多産にあやかり、亥の月(十月)の初めの亥の日の亥の刻(午後九時から十一時)に、新穀でついた亥の子餅を食べ、無病と子孫繁栄を祈る年中行事でもあります。
また「亥の子節供は夕節供」という里諺があるとおり、子供たちの行事もすべて夜行われました。江戸時代、市中では、この日に炉や炬燵を開き、火鉢を出し始める習慣があったそうです。

 もともとは中国から伝わった行事で、日本では平安時代頃から行われ始め、宮中ではこの日に亥の子の形をした餅(亥の子餅)を献上する儀式があり、これが次第に民間でも行われるようになりました。
 亥の子餅は玄猪ともいい、室町時代には、白・赤・黄・胡麻・栗の五色の餅でしたが、近世には小豆の入った薄赤色の餅となり、やがて牡丹餅となった。

関西では特に盛んで、「女の子祭り」、「女の子節供」として行われています。
 農村では、亥の子の神は田の神であると信じられていましたが、「亥の子」の名の由来ははっきりしていません。十月の望の日(十五日)がもともと休みとされていたこと、また、一二か月に順次十二支をあてはめていく暦では一月が子からはじまり、十月が亥の月にあたる事が関係しているようです。

 公家の社会では、亥(猪)、つまりイノシシはたくさん子を産むところから産育の神様とされ、平安時代の文献にはこの日に亥の子餅をついて祝ったとあります。
 女の子餅は「玄猪」とも書いて 「ゲンチョ」または 「ゲンジョウ」とも読むので、それを誤って読んで「ゲンジュウ」とも言うようになり、宮中の女の子餅は「厳重餅」と呼ばれました。
 そして多産の神はすなわち豊作の神に通じるところから、次第に農村にも稲の刈り上げの行事として広まり、また、商人も多産を商売繁盛につなげて祝うようになりました。

 十月に亥の日は二回または三回ありますが、普通は初亥を祝いました。
もっとも江戸時代になると、初亥の日は武士、第二の亥の日は農民、第三は商人というように分かれて祝ったようです。
 なかでも、商人中心の大坂では商人が第二の亥の日を祝ったと言います。
また、佐賀県あたりでは、女性が子どもを産むことと田植えが本来女性の役割だったことから、初亥を女性の亥の日としています。

 亥の子の祝いが行われる旧暦十月上旬は、季節的には米の収穫が終わる時期にあたり、稲刈りが無事に終了したことを田の神様に感謝する収穫祭、つまり刈り上げ祝いの行事として、特に西日本で盛んに行われました。
農村では、亥の子の神を田の神とし、田の神を祭る行事、収穫祭として祝うところが多かったようです。
 中国地方などでは、二月の初めての亥の日も「春亥の子」として祝いをする風があります。鳥取県下では、二月の亥の日を春亥の子といって祝い、神がこの日に田に降り、十月の亥の日に帰るとしています。亥の子の神は、春現れて田の稲を守り、秋の取り入れの後に帰ると考えられていたのです。
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