昔、昔、幾昔も前の事、甲州と信州とで戦をしておった。
清春のあたりは信州に近いから、いつも攻めたり攻められたりと大変じゃった。そのうち、信州の大河原という所のお殿様が戦に負けて、お城を敵に焼かれてしもうた。そこで、お城で働いていた乳母が、お殿様の子供でまだ赤ん坊の小さい子供を抱いて、幾人かの家来衆に守ってもらって逃げ延びた。
国界橋の辺りから甲州に入って柿の平の辺りまで逃げ延びた。柿の平の辺りは見晴らしもよく住み良さそうであったが、敵に見付かり安かろうと深沢の沢に一行は下った。沢には、大きな穴が幾つも空いている岩が有って、身を隠すには格好の場所であった。「おお、飲みっぷりの勇ましい事!」乳母も赤子に乳を含ませながらほっと喜んだ。こうして乳母たちは一先ず深沢の沢に身を落ち着ける事が出来た。
追手が厳しく詮索していると言うて、昼間っから出歩くわけにもいかず、落ち武者たちは夜になると、こっそり洞窟を抜けだして近くの村へ出かけ、百姓家から鶏や米なんぞを盗み出して、それを煮炊きして食いつないだ。乳母も乳代わりに粥を良く冷まして、赤子の若君に差し上げた。ぼうやは良い子だねん寝しな、この子の可愛さ限りなさ、天に昇れば星の数、七里ガ浜では星の数・・乳母は暇を見ては赤ん坊にこうした子守唄を唄うのだった。
洞窟での緊張した生活は日一日と過ぎて行った。そんなある日の事・・「誰かおらぬか」乳母の呼び声が空しく洞窟に響いているばかり。家来衆は主君の赤子のお守り役に見切りをつけたのか、乳母と赤子を洞窟に残したまま、何処ともなく逃げて行ってしもうたのじゃった。
家来たちに去られて、乳母は一人途方に暮れた。赤子一人を置いて食べ物を探しに出かけるのは、随分躊躇われたが、赤子がひもじがって泣くので、とうとう決心せざるを得なかった。物乞いの一人になり済まして、村へ食べ物を探しに出かけることにしたのじゃった。乳母は、沢の上り淵から折ってきたこぶしの花を赤ん坊の枕元に置いた。目を覚ました赤ん坊が、少しでも寂しさを紛らせてくれればとの、心づもりじゃった。
しかし、落ち武者狩りをする追手は諦めてはいなかった。沢に夕暮れが迫ったころ、敵方の追手の一人がとうとう、乳母と赤子が身を隠す洞窟の辺りまで迫ってきた。「どうやらこの辺りにも人の気配はないようじゃな・・誰かいるのか?」洞窟から立ち去ろうとしていた男が、かすかだが確かに洞窟の中に漂ってくる何かの匂いを嗅ぎつけた。
それは白粉済ます女性の匂いに他ならぬとすぐさま思い込み、洞窟の中へ踏み込んでいった。「こぶしの花じゃ、白粉の匂いと思ったのは此の花のにおいであったか・・早合点であった!しかし、なぜこんな所に??」と男は手を伸ばしかけて花の下に赤子を見つけた。この赤子は紋付の産着を着ていたが、確かに大河原の殿様の紋であった。
「大手柄じゃ!!大河原の殿様の子供を見つけたぞ!!」と男は泣き叫ぶ赤子を横抱きにし、夢中で主君のもとへと連れ去って行った。洞窟の辺りには、赤子が激しく泣く声が響くばかりであった。洞窟の辺りには、蹴散らされたコブシの白い花が、そうして洞窟の辺りには、泣き続ける赤ん坊の声がいつまでも木霊となって残った。
戻ってきて事情を悟った乳母は悲しみのあまり、そのまま深沢へ身を投げて死んでしもうたそうな。今でも、雨が降る晩に赤子が連れ去られた洞窟の坂道を通ると、途切れ途切れに赤ん坊の泣き声が聞こえてくるという。それからというもの、この坂を赤子坂というようになったという事じゃ。
(投稿者: aiel 投稿日時 2011-8-28 22:57 )
ナレーション | 常田富士男 |
出典 | 山梨のむかし話(日本標準刊)より |
出典詳細 | 山梨のむかし話(各県のむかし話),山梨国語教育研究会,日本標準,1975年06月10日,原題「赤子坂」 |
備考 | 舞台は姥が懐(うばがふと)との事。 |
現地・関連 | お話に関する現地関連情報はこちら |
場所について | 赤子坂(姥が懐周辺) |
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