No.1009
こしんぼう
こしん坊

放送回:0636-A  放送日:1988年02月13日(昭和63年02月13日)
演出:こはなわためお  文芸:沖島勲  美術:青木稔  作画:塚田洋子
茨城県 ) 17246hit
あらすじ

昔、今の茨城県笠間市上加賀田の大日山のふもとに、こしん坊と呼ばれる男の子と母親が仲良く暮らしていた。こしん坊は大変親孝行な息子だった。

ある日、母親が「尾張の国の津島の天王様のお祭りを、一度見てみたい」と言った事を、こしん坊はだまって聞いていた。しばらくたった夏の夜の事。母親に「おらの背中に目隠しをして、おぶさってくれろ」と言いだした。母親が言われたとおりにしてみると、体がふわりと浮いたようになり、あっという間に尾張の津島に到着していた。

そこは昼間で、お祭りの最中であった。お祭りは賑やかで大変すばらしいものであった。やがて日も傾いてきた頃、再びこしん坊は母親に目隠しさせておぶい、あっという間に我が家に帰ってきた。

こしん坊は「今日は疲れたので、一日寝ていてぇよ。おらが寝ているところを見ねぇでくれろ」と言って、奥の部屋へ入り寝てしまった。母親は言われたとおり寝かせておいたが、夕方になってもこしん坊が起きてこないので、心配になってそっとふすまを開けてみた。

するとそこには天狗が大鷲のような大きな羽を広げて眠っていた。やがてこしん坊が目をさまし、母親に「姿を見られたら山へ帰らないといけない」と言い残し、そのまま空を飛んで大日山の方へ行ってしまった。

その後、一人でさびしく暮らしていた母親の目の前に、ある寒い冬の夜のこと、こしん坊が突然戻ってきた。こしん坊は「今度、旅に出ることになり、その前に母親の願いを一つ叶えたい」と言い、たけのこが食べたいという母のために、「おっかさんが生きている間は、大日山にいつでもたけのこが生えているようにする」と言って、去って行った。

翌朝、母親が大日山に行ってみると、雪の中にたけのこがたくさん生えていた。こしん坊はきっと大日山の天狗の子だったのだろう。大日山のたけのこのおかげで、母親は長生きをしたという。

(投稿者:カケス 投稿日時 2012-11-7 21:04 )


ナレーション常田富士男
出典茨城のむかし話(日本標準刊)より
出典詳細茨城のむかし話(各県のむかし話),茨城民俗学会,日本標準,1975年10月13日,原題「ふしぎな子」,文「金澤直人」
場所について笠間市上加賀田(地図は適当)
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地図:笠間市上加賀田(地図は適当)
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※掲載情報は 2012/11/7 22:06 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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ゲスト  投稿日時 2016/2/20 9:47
真南嶽山 218メートル
▼国土地理院25000地図 羽黒、加波山、岩間、笠間(地図に山名なし。唐桶山の南、218標高点)
▼最寄駅 JR水戸線・宍戸駅
▼登山口 茨城県笠間市上加賀田の大日堂
▼石仏 大日堂の左手奥

国土地理院の地図に真南嶽山という山名はなく、地元で呼んでいるは真南嶽(まなだけ)を山名とした。かつては大日山とも呼ばれた小さな里山である。そのふところに大日堂があり、境内右手の沢に入るところに姥神が坐す。乳房を出した老婆の姿が多い姥神であるが、この姥神は豊満で若さがみなぎっている。この石仏、笠間市の資料では奪衣婆としている。奪衣婆はあの世の入口である三途の川で、渡ってくる亡者の衣服をはぎ取る痩せこけた老女。それに比べ、はるかに若々しいこの石仏は姥神に違いない。このブログでたびたび案内してきた出羽三山から勧請された姥神である。これが出羽三山から勧請したという確かな根拠はないものの、北関東から東北南部の山にある姥神はすべて出羽三山、とくに湯殿山に関係があること。また、この御堂が出羽三山の湯殿山系と同じ真言宗であり、大日山と呼ばれたこと。天明年間に小身坊という行者が再開山したことなど、江戸時代初期にこの茨城県南部に遊行し、大日山を各地に開いた湯殿山系真言宗修験者の影響が見られることなどから、姥神と判断した。大日山については、徳原聰行編著『常総・寛永期の大日石仏』(平成15年、筑波書林)で、この真南嶽山に伝わる「こしん坊」の民話を紹介している。そこには、こしん坊が「真南嶽山と唐桶山の中間にある大日山にこもった」とあり、ここに言う大日山はいま残る大日堂なのだろう。同書は、湯殿山とその本地仏である大日如来に関係する地名と石造物が茨城県南部にたくさんあることを紹介し、その背景をさぐった本である。真南嶽山へは、大日堂手前で林道が二分する場所から尾根に通じる踏み跡を辿る。山頂は雑木林で石仏も展望も何もない。

大日堂に立つ案内に、この御堂を再開山したのは「天明年間(1781~88)」小身坊という行者による、とありました。ところが境内にある石燈籠には「宝永四年(1707)」の銘がありました。それも胎蔵界大日如来の種字アークが入ったものです。小身坊という行者の大日堂再開山がどういうものであったのかはわかりませんが、石燈籠の年号からして、大日堂の信仰は小身坊が入る前からあって続いていたと考えられます。ちなみにもう一つの石燈籠には「安永六年(1777)」の銘がありました。
http://blog.goo.ne.jp/bosatu2014/e/2496b74e4a16ea5dcafb7717174d8e0c
ゲスト  投稿日時 2015/10/22 19:07
尾張津島天王祭の まきわら舟とかが 忠実に再現されて いたが昔は 夜祭りと朝祭りが逆だったのかと疑問に思いました 自分の勘違いかも知れませんが
でもこの作品を見れて本当に嬉しかった
もっと この話を津島市民は
知るべきと思う こしん坊さんの ゆるキャラでも作り 後世に 伝えて欲しいと思う
良い作品でした ありがとうございます
ゲスト  投稿日時 2015/9/29 0:35
こしん坊は結局どういう存在だったんだろう?
正体が天狗ってことは実の子じゃない?それとも親父が(母親は知らなかったけど)天狗だったとか?
カケス  投稿日時 2014/7/27 19:23
この土日で尾張の津島の天王様のお祭りがやっています。本当に絢爛豪華なお祭りですよ。
今でも7月最終の土日にやっています。機会があれば、ぜひ皆様にも見ていただきたいです。
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