山姫さまと兄妹 についてのコメント&レビュー投稿
昔、大谷の里に杉作と小江(こえ)という兄妹が住んでいた。里では秋になると雷電山の神、山姫さまは赤い晴れ着を織り、秋の踊りを舞うのだといわれていた。杉作はその踊りが見たく...…全文を見る

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投稿者:hiro 投稿日時 2012/1/7 22:24
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<補足>あらすじには入れませんでしたが、兄を追いかけていくという小江に杉作が「生娘が山に入ると山姫さまにとり殺される」といいます。
大筋とは関係ないですが、山の神が嫉妬深い女性で、それを避けるように言い伝えられていることの一端が見えて面白いので付記します。
また、話中3度ほど歌が流れます。短いですが、節が印象深いのでおぼろげに記憶しておられる方もいるのでは?

いっちゃなんね、いっちゃなんね、雷電山へ
山姫さまの家を見に
年に一度の踊り見に


その他、下記リンク先にも解説が載っているので、ぜひ読んでみてください。
http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000062322
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投稿者:beniko 投稿日時 2012/1/8 2:32
あらすじ投稿ありがとあうございます。紅子的には、これは「このお話かもしれないシリーズ」という認識でおりますが、間違いなくアニメのお話(あらすじ)って事でしょうか?紅子が勝手にあらすじ文の上部に「だと思う」と明記しましたが、よかったのかなあ。
※追記:リンク先ページが、表示できませんです。なんでかなー。
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投稿者:hiro 投稿日時 2012/1/8 10:54
昨日hiroが投稿しました
「一モッコ山の由来」
「油のでる山」
「山姫さまと兄弟」
「十五夜のぬすみだんご」
すべてアニメを確認してあらすじを書きました。
ですので、間違いなくアニメのお話です。
「山姫さまと兄弟」と「十五夜のぬすみだんご」についてはサムネイルもないようですが、
私の方で用意することができます(古いビデオからのものなので画質はよくないですが…)

また、リンク先についてですが、直接リンクを貼っていいものかわかりませんでしたので、
わざとアドレス最初のhを抜いてあります。
実際はhttp://crd.ndl.go.jp~になりますので、ご了承ください。
こういう場合、直接のリンクって貼ってもいいのかな?
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投稿者:beniko 投稿日時 2012/1/8 14:20
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アニメでのあらすじだったんですね、スイマセン、紅子が見たことなかったので勝手に予測かと思ってしまいました。今、訂正しました。

画像サムネイルは欲しいです、絵は記憶と強く結び付いているので掲載したいです、よろしくお願いします。(追記:不思議な石の画像サムネイルもありましたら欲しいです)※それとこのお話のナレーションはどちらの方でしょうか。(提供後記載済み、ありがとうございました)

それとリンク先としてURL明記ですが、閲覧者がクリックだけで見れるようにしておいた方が親切でしょうから、h入れてお願いします。※先のURLは紅子の方で訂正させてもらいました、よろしくお願いします。
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投稿者:beniko 投稿日時 2012/1/9 20:32
今、気が付きましたけど、兄弟じゃなくて兄妹なんですね。
他のサイトからの引用あらすじを読んだ時に、何で兄弟だろうというなんとなくの違和感はあったんですが、兄と妹できょうだい、って事だったんですね。(納得)紅子、間違っていたので訂正しました。

ちなみに「このサイトについて」にも書いておりますが、このお話情報は貉工房さんのサイトを拝見しつつまとめてあります。多くのまん日ファンの方が参考にしている狢工房サイトですので(いわば基幹情報)、この件は知らせておきたいと思います。(hiroさんありがとうございました)
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投稿者:hiro 投稿日時 2012/1/9 23:47
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あ~、たしかに兄妹ですね。
これは実際にタイトルを見ないと気付かない…(見てても気付けなかったけど;
紅子さん、修正ありがとうございました。
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投稿者:araya 投稿日時 2012/1/10 0:06
この作品は下手をすると障害者への配慮とかが働いて、DVD化されることは
なさそうな気が…。

山の神は「一本だたら」「片足上臈」などの妖怪にも見られるように、一本足とする地域も多く、片足神としての文化的なものなんですけどね(^_^)。

機会があれば、絵の美しさとともに是非とも見てみたい作品です。
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投稿者:hiro 投稿日時 2012/1/11 19:18
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そうですね、山姫さまはあきらかに一本足ですから…
でも、山姫さまの美しさと怖さが両方あじわえるステキな作品だと思います。
どうぞ風の吹かないうちに見てみてください。
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投稿者:たまきち 投稿日時 2013/4/9 19:24
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ちょっと出来るかわかんないしバチあたりなコメントですが、山姫様に会って見たいなぁと思いましたね(~_~;)ひじょうに魅力的に作品でした。
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/1/18 18:28
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雷電山の山姫  ~ときがわ町
【妖怪名】 雷電山の山姫
【伝説地】 埼玉県ときがわ町
【内 容】
昔、雷電山の頂きから、妙えなる神楽の音が時々聞こえてきた。それは、山の上に住む片足のお姫様が奏するものと言われていた。お姫様に逢うには頂上まで片足でのぼらなければならなかった。
ある時、堂山村(現・越生町)の若者が、神楽の音を聞いて、たまらなく姫にあいたくなった。そして、片足で登山をはじめた。歯を食いしばり登り続けたが、九合目までたどり着いた時、とうとう両脚を地につけてしまった。若者は失望と疲労のためそこで亡くなってしまった。
それから神楽は聞こえなくなり、姫の行方もわからなくなってしまった。
若者の亡くなった日には死を悼むかのような大雨が降ったことから、日照りの時には、山の上に登って若者を弔えば雨が降ると言われ、山の名も雨乞い尾根と言われるようになった。
【補 足】
・「日本伝承民俗童話全集」では、東松山市大谷の雷電山における話として、同様な山姫の話がある。
・この話でも、山の神は一つ目一本足であると言う信仰があらわれています。
【出 典】
「埼玉史談 第3巻」 埼玉県郷土文化会 編、国書刊行会
「埼玉県伝説集成 分類と解説 下巻」 韮塚一三郎 編、北辰図書
【参考文献】
「日本伝承民俗童話全集1 関東篇」 藤沢衛彦 著、河出書房
http://p.booklog.jp/book/50654/page/1157408
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/1/18 18:41
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屋久島の山姫の話です。
 その外見は、「きれいなおなごで、髪は今洗ったばかりのつやのある洗い髪で、うしろへ長く垂らしている。そして十二ひとえの緋(赤い)のハカマを着て」いるということです。また、背が高く、髪は茶色、皮膚は真っ白で、腰にシダを巻きつけて裸というパターンもあるようです。これなんかは、何となく西洋人を思わせる特徴です。
 しかし、共通して美しいとされる容姿とは反対に、山姫は非常に恐れられています。
 山姫と出会い、先に笑われると首の血を吸われてしまうというのです。逆に山姫が怒ってくるときは安全だとか、山姫より先に笑えばよいとか、つられて笑わずににらみつけると良いなどとあります。他ににこにこ笑われていたけど、「もう二度とここには来んから、どうか許してくれ」と詫びながらひれ伏し続けて、難を逃れた話も載っていました。
 あとは、三味線をひいて歌を歌うこともあるとか、木の精であるとか、旧の正月、5月、9月の山の神祭りの日に、祭りの潮水汲みに、タンゴ(木の桶)を下げて降りてくるなどというのがおもしろかったです。
http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-64.html

『屋久島の民話 2(日本の民話38)』(下野敏 未来社 1965)〈山姫〉
p121「山姫」 東松山の話との共通点は山にいる(屋久島の山)、山姫はきれいな女子、山の神祭りの日には山へ行ってはいけない、山姫は恐れられている、若者が山の中で山姫に会う、家に帰った若者に災いあり(寝込んでしまう)。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000062322
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/1/18 19:20
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大岡村(おおおかむら)とは、現在の埼玉県東松山市にかつて存在した村である。比企郡に属していた。現東松山市大岡地区である。
熊谷市と隣接している。 大岡地区活動センターがあり、隣に大岡グランドがある。
歴史
江戸時代、大谷村は幕府旗本領 に、岡郷は上野前橋藩領 に属していた。
1889年比企郡大谷村、岡郷、市ノ川村、野田村、東平村が合併し大岡村となる。数ヶ月後、市ノ川村、野田村、東平村が折り合いがつかず、3村離脱、松山町へ編入合併されている。
1954年7月1日に比企郡松山町・大岡村・唐子村・高坂村・野本村が合併し、東松山市となる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B2%A1%E6%9D%91_(%E5%9F%BC%E7%8E%89%E7%9C%8C)
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/1/18 19:27
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川越カントリークラブ(かわごえかんとりーくらぶ)は、埼玉県東松山市にあるゴルフ場で、緑豊かな武蔵丘陵森林公園に隣接する比企丘陵のコースである。周辺で知名度の高い川越市の近郊にあることが名前の由来である。
埼玉県東松山市大字大谷4189
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E8%B6%8A%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96
http://www.kawagoecc.com/
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/1/18 19:47
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大雷神社 東松山市大谷3506 祭礼4月12日
大雷神社祭礼相撲場跡 市指定史跡 案内板より
旧大谷村の総鎮守大雷神社の社殿を中心に、辻(相撲場)が二ヶ所あり、一の辻・二の辻と呼ばれ、一の辻は大相撲に、二の辻は草相撲に使用されていました。辻には三百席ぐらいの桟敷席が、傾斜地を巧みに利用して造られていました。現在は二の辻だけが残っています。大雷神社の相撲は、江戸時代中頃から行われていたと伝えられています。相撲の興業には、領主だけでなく関東取締役の特別の許可が必要でした。相撲興業には、近在の人々が大勢集まり、「関東三大辻相撲」の一つといわれるほどにぎわいました。この日、祝酒とともに「ぼたもち」を相撲見物の人たちにふるまったことから「大谷のぼたもち相撲」とも呼ばれ、大変親しまれていましたが、明治二十年頃を最後にその姿を消しました。
昭和61年3月 東松山市教育委員会

雷電山古墳(雷電神社) 東松山市内の古墳
雷電山古墳は県道391号線から丘陵地帯を登ったところにあり、周囲は川越CCになっています。 三千塚古墳群の1基である雷電山古墳は5世紀初頭に築造された全長約86m、高さ約6mの帆立貝式古墳です。
http://saitamano.blogspot.jp/2012/08/blog-post.html
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/1/18 20:09
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雷電橋
 角川、埼玉県東松山市大谷(下流から)
 形式: 石の桁橋(1スパン) 長さ2.1m、幅1.8m 建設:明治22年(1889)3月
 角川は荒川水系の一級河川(滑川の支川)。
 この橋は大雷神社の参道入口に架かるのだが、
 大雷神社は、ここから北へ1.2Km先の丘陵の中に位置する。
 雷電橋は明治22年に大谷村氏子中が寄進したもので、角川の左岸には
 同時に建てられた旗立、鳥居、大理石の敷石も現存している。
 雷電橋は全て石造りであり、構造は石材(215×36×20cm)5枚を
 桁として渡しただけの簡素なもの。石材のうち一枚はコンクリート製に
 換えられている。これは補修ではなく拡幅の可能性が高く、
 当初は橋面の石材は4枚であり、橋の幅は1.4m程度だったのかもしれない。
 同様に橋台と桁の支承部に見られるコンクリートも
 補修ではなく嵩上げのためのものだろう。
 親柱(高さ59cm、21cm角)と欄干(高さ30cm)はダボで結合されている。
http://www.geocities.jp/fukadasoft/bridges/stone/index6.html
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/1/18 20:16
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【史跡データ】
名称:埼玉県東松山市指定史跡「比丘尼山と横穴墓群」
所在地:埼玉県東松山市大谷
時代区分:古墳時代終末期
形態:横穴墓群

比丘尼山横穴墓群(びくにやまおうけつぼぐん)は、埼玉県東松山市にある古墳時代の横穴墓群の遺跡。1957年、「比丘尼山と横穴墓群」の名称で市の史跡に指定された。三千塚古墳群の第8支群が分布する通称「比丘尼山」の南斜面に3、4段に配列して築造された。40〜50基余りの横穴墓が分布していると思われ、うち3基が開口している。吉見百穴と同様の7世紀頃に造られたものであると思われる。1878年(明治11年)に山名貫義とオランダ人ヘンリー・シーボルトによって踏査が行われた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E4%B8%98%E5%B0%BC%E5%B1%B1%E6%A8%AA%E7%A9%B4%E5%A2%93%E7%BE%A4

「雷電山古墳」を散策した後は、川越カントリークラブの西側にある、東松山市指定史跡「比丘尼山と横穴墓群」を散策してみた。

現地解説板。解説板脇の藪の中に横穴があった。

「比丘尼山」は、伊豆に流されていた源頼朝を援助した比企郡司遠宗の妻が、夫の没後、比企禅尼となりここに草庵を営んだ、といういうことから呼ばれています。周辺には二代将軍頼家の妻若狭局が頼家亡きあと移り住んだと伝える場所などもあります。
また、この丘陵の斜面には、七世紀に出現した横穴墓群が存在します。比企地方では吉見百穴、黒岩横穴群などがあり市内では、この比丘尼山横穴墓群のみです。これらの横穴墓群は吉見百穴を中心に西に広がっており、同地方に移住した渡来系氏族の壬生吉志氏とのかかわりあいのある墓制とも考えられています。(現地解説板)
http://blog.goo.ne.jp/daidi/e/fbda8ef20b34202daa27e69a353ee255
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/1/18 20:23
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大谷瓦窯跡は、県道福田・吹上線を北側にのぞむ、丘陵の東南斜面に残されています。
昭和30年5月に2基の窯跡の発掘調査が行われ、完全な形で掘り出された1基です。
瓦窯跡は、瓦を焼いて製作した窯のことで「登り窯」とよばれる形態をもっています。
また、瓦の製造は、寺院建築とともに始まったものです。
この窯跡は、地山を掘り窪めて構築したもので、前長760センチメートル、約30度の傾斜をもっています。幅60センチメートルの焚口は、瓦を立てて補強してあります。燃焼部は一段深く掘り込まれて、一つの部屋を形成しています。また、瓦を利用して13の段が形成されているなど、全体に補強工作が慎重に行われています。
出土遺物は、軒丸瓦、平瓦、丸瓦、文字瓦などです。年代としては、白鳳時代と思われます。
所在地 東松山市大谷2192-1
指定年月日 昭和33年10月8日(国指定文化財)
http://www.city.higashimatsuyama.lg.jp/kurashi/bunka_sports/bunkazai/shitei_bunkazai/1350459805158.html
投票数:35 平均点:10.00

投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/1/19 18:53
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寺谷廃寺【てらやつ はいじ】(比企郡滑川町大字羽尾字平沼下) 興長禅寺 近く
埼玉県寺谷廃寺から勝呂廃寺への変遷
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/33996/rsg082-13-sakai.pdf

仏教が百済【くだら】から日本に伝えられて約50年の時を経て、日本初の本格的寺院-飛鳥寺【あすかでら】が6世紀末に建立されました。
埼玉県内には東日本最古と推測される寺谷【てらやつ】廃寺(滑川町)があり、本県でも7世紀前半に寺院が造営されたと考えられています。
やがて8世紀後半になると、関東の集落遺跡からは仏教的要素の強い遺物が出土するようになります。また、鑑真【がんじん】の高弟・道忠【どうちゅう】が民衆に布教活動を行ったのもこの時期のことと伝えられており、仏教が次第に民衆に浸透していった様子がうかがえます。
http://www.saitama-rekimin.spec.ed.jp/index.php?page_id=143

興長禅寺 (〒355-0811埼玉県比企郡滑川町羽尾4717 Tel,0493-56-2107)
http://1st.geocities.jp/tekedadesu/kouchouzenjinamekawa.html


このお話の大谷にある 大谷瓦窯跡 は 東日本最古の寺院である 寺谷廃寺 に関係が深い。
この地域は、古代の権力者(物部氏、壬生吉士氏 等?)がいて、信仰の拠点であったようです。
また、大谷にある 比丘尼山横穴遺跡 は 吉見百穴遺跡 と同系統の遺跡です。
外国系氏族の 痕跡のようです。古代の大きな勢力と豊かであった当地域の歴史を感じる お話です。
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/1/19 20:37
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  民話               遺跡
山姫さまと兄妹(東松山市大谷) = 大谷瓦窯跡
雷電山の山姫  (ときがわ町)  =  南比企窯跡群(みなみひきようせきぐん)


上記のような 同時代に窯跡があった という共通性がありました。
当時は人的な交流と移動が深くあったものと思います。(どちらが古いかわかりませんでした。)
当時の瓦等の作製には、大量の木材を必要としていました。ですので、大量の木材を山へ伐採しに 雷電山 に入り、事故等に遭った事が神話となったものとも思われます。
二つの地域には同じ「山姫」の物語がのこったものと推測します。
また、大谷 と ときがわ町 の中間地には、東日本で最古級の 桜山窯跡遺跡 があります。

南比企窯跡群(みなみひきようせきぐん)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%AF%94%E4%BC%81%E7%AA%AF%E8%B7%A1%E7%BE%A4

ときがわ町 亀の原窯跡群 南比企窯跡群の一部
http://www.town.tokigawa.lg.jp/forms/info/info.aspx?info_id=12425

桜山窯跡遺跡
http://www.qryo.net/remains001.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4_(%E6%9D%B1%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E5%B8%82)
投票数:36 平均点:10.00

投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/1/21 15:23
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比企郡 寺谷廃寺(滑川町羽尾) の成立した地域について
(お話の舞台である東松山市大谷を含む)
比企郡 総鎮守である 伊古乃速御玉比売神社 (埼玉県比企郡滑川町伊古1242)
http://www.geocities.jp/engisiki/musashi/bun/mus171401-01.html
http://kagura999.ikaduchi.com/hpbqsite/mysite1/newpage1iko.html
が、寺谷廃寺の西方面にある。
この地域は比企地方は勿論のこと、広範囲の勢力中心地であったことが伺える。

比企地域を最初に成立させたのは、阿波(安房)忌部氏のようで、
その後、続々と多くの氏族が定着して行きました。

比企郡 名前の由来
http://kagura999.ikaduchi.com/sub27hiki.html
上記サイトに載っていなかったので、私論ですが、
比企 は 伊古乃速御玉比売神社 の 伊古 から変換された名称と思います。
伊古  iko  
 ↓
比企 hiki
に、母音だけ変換されたと考えています。

また、お話の 山姫 と 伊古乃速御玉比売 との関係もあると思います。
伊古乃速御玉比売神社 の旧地奥宮は二宮山の山頂にあります。
http://www.geocities.jp/engisiki/musashi/bun/mus171401-02.html
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