Re: 善兵衛ばなし

善兵衛ばなし についてのコメント&レビュー投稿
昔、愛媛の宇和島に、善兵衛という山菜売りの男がいました。善兵衛は、朝から晩まで走りっぱなしで働き、雨の日も風の日も走って走って働きました。 そんなある日、走りっぱなしの...…全文を見る

Re: 善兵衛ばなし

投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/1/22 12:13
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トッポ話
 愛媛昔話の、笑い話の主題は多岐にわたる。そして、笑い話が特定の個人の名を冠して、ある人物を主人公にしているのが通例であるごとく、黒おじ・浅兵衛・赤陣太などが登場する。それらの笑い話はトッポ話と総称される。笑い話は県下のどこででも話されているにもかかわらずトッポ話として総括・集約されるようになった。


=====目玉の出世(図表「目玉の出世」参照)=====
 ※黒おじトッポ話ではないが、トッポ話の典型のひとつとして掲げる。

 平城の松左衛門さんが、宇和島の和霊さんに行こうと思うて仕度をして御荘の長崎の港に来たんやなぁし、ほいたら船着場の海の中に大海亀が一ぴき頭を出して浮いているんよなぁし。よく見たら大海亀のせんごに松左衛門と彫り込んであるんですらぁ。こりゃぁ案の定、去年四十二のお祝いに、赤水の漁師から買うて酒のまして放してやった松左衛門の大海亀ですらい。
 松左衛門は「よう来た、よう来た」いうて頭を撫でてやると、大海亀は頭をさげて涙をぽろりと流すんですらぁ。ほいて「はよう背中に乗んなせ」と言うんですらぁなぁ。松左衛門が背中に乗ると、大海亀は波を切って泳ぐというか、海の上を走るように進むんよなし。持っていた袋の口を開けると飛魚がじゃんじゃんはいってくるんよなし。すぐにいっぱいになってなし。いっときもせんのに宇和島に着いてしもうたがなし。
 袋いっぱいの飛魚は親戚に土産にあげて、街に出て歩きよったところが何やら黒山の人だかりがして、わぁわぁとさわぎよるがなし。なんじゃろかと思うて行ってみたが、なにさまあんまり人が大勢でさっぱり中を見ることができんがなし。そんで、ちょうどこうもり傘を持っとったもんじゃけん、ひょっくり思いついたんじゃが、右の眼玉をはずして、その先に目玉をつけて、うんとこさ差し上げてみたら、見えるは見えるは、いま牛の突合いのまっ最中よ。
 松左衛門が大嬉びで見よったところが、人だかりの上で輪を描いて遊びよったトンビが、こうもり傘の先の眼玉をくわえたなりスーッと翔んでしもうたのよなし。
 「うわぁっ大事じゃ」とあわてて追おうと走りよったら、トンビのやつ、くわえていた目玉をポトリと落したがなし。やれうれしやと喜んで、大急ぎで目の穴に押し込んだのはよかったけんど、あんまりあわてたんで裏返しにはめ込んでしもうた。そんで外はさっぱり見えんが、よう気をおちつけて見ると、おどれの頭の中やら胸の内、腹わたの中まで手に取るように見えるけんなぁし。そんで、平城で医者をはじめたところが、これがまた案の定大はやりにはやって一代のうちに大財産こさえ、えらい評判になったと言わぁなし。
 ところがある日、和口の安おじやんが
 「先生よ、わしゃ嚊ぁとけんかして頭を叩かれ、左の目ん玉が飛び出しとぅなし、はよういれちゃんなれ」というんで「そうか、目ん玉見せや」ちゅうんて安おじやんの目玉を持ったところがぬるぬるしちょるもんやけん滑り落して泥もぶれになったがなぁし。ほんで水で洗うて庭に干しとったんだす。「安おじやんよ、目玉洗うて干しちょろけん、あす来いやぁ」言うて帰したんよなし。ほいたところが、干しちょった目ん玉を犬が食うたんよ。松左衛門さんは、こりゃしもうた思うて追いかけたけんど、あとの祭りよなし。困っちょったところへ運よう犬がもんて来たがなし。そやけんど安おじいの目玉はありゃせんが。仕方がないけん犬の目ん玉取り出したんだすらぁ。
 あくる日、安おじやんが来たんで、しらん顔して、犬の目ん玉を安おじやんの目に入れたんよなし。
 そいからしばらくして、松左衛門さんがお大師さまのお祭りに行ったら安おじやんに会うたんよ。「安おじ、どがいぞ、見えるかのう」と声をかけたんよ。ほたら、安おじやんがいうたんよ。
 「よう見えるこたぁ見えるけんど、なっしゃろか、左目で見ると道ばたのごみ箱ばっかりが目につき、臭いものぎりがよう見えらぁなし。そいで、その臭いものがえらいうまそうに見えるんよなぁし。なっしゃろかなぁ」
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 トッポ話の風土
 トッポ話は南予の、それも潮風のあたる地域で醸し出される笑い話であるとされる。宇和海は瀬戸内海とはいくらか潮の色や動きが異なるのか、その沿岸の住民たちの気風や性格、それに行動の型も特異なものがあるようである。三崎十三里といわれる佐田岬は宇和海型の思考と瀬戸内型のそれを截然と分かつ障壁のごときものであるかもしれぬ。太平洋黒潮文化圏と呼ばれるものがあるとすれば、いくらかそれに近いように思われる。安貞の頃(一二二七~二九)、伊予国の矢野保のうちの黒島で網をいれたところ魚は全然獲れないで鼠が網にかかっており、引きあげられてみなちりぢりに逃げ失せた…鼠は陸にこそ生息するものであるのに海の底にまで鼠がいようとはまことに不思議千万である(『古今著聞集』巻第二〇 伊予国矢野保の黒島の鼠海底に巣喰ふ事)と都人たちが驚いている。伊方湾を扼するような位置にその黒島は現存するが、当時〝すべてその島には鼠みちみちて畠の物などをも喰いつくして人々は作物をつくることができなかった〟と報ぜられている。都人たちにとってはまことに奇怪なことではあるが、宇和海では現実のことなのであった。この記事は七五〇年余の昔のことであるが、鼠の異状繁殖は現代のことでもあった。昭和三〇年代の宇和海におけるそれはまことに凄まじいものであった。子供たちは鼠を釣って尾っぽと交換に奨励金をもらって小遣いに不自由しなかったというし、鼠の天敵である猫・蛇・鼬がそれこそ歓呼の声に送られて日振島・戸島などに投入された。その後三〇年、鼠問題は終焉したかにみえるが、こんどはその猫が増えすぎて捕獲せざるをえなくなったことが報道されると、こと猫権にかかわることだと他県の愛猫家から非難の声がおこる。
 「ここいらでは当りまえのことでも、よその人に話したら〝おかしい〟ことがようありますらい…」と南予の人はいう。獅子文六の小説『てんやわんや』に、あるいは『大番』に描かれた饅頭を底なしに食う男、ラブレターをガリ版で刷って配る男は実在したし、そのことは「なぁんちゃ、ちっとも〝おかしい〟こたぁあるかい」程度の日常茶飯事であった。風土がそもそも多少の怪奇性を帯びているとすれば、そこに生息する生きものもいささが奇矯であってもしかたがないと思うのは第三者の観方であって、当人たちはすこぶる正常なのである。宇和海の島や沿岸には稲作に適する水田はごくわずかで、急傾斜の山肌に営々として小石を築きあげて段畑を作った。そこに麦・藷をうえて主食とし、宇和海の干し鰯を副食として生きてきた。イモとカイボシ、これほどの食文化の理想型を無意識のうちに実践してきた、あるいは実践せざるをえなかった人々は他にはあるまい。農耕型と一種味わいのちがう準海洋型の南予人の発想がトッポ話を育んできたといってもよい。とにかく、親切明朗で奇抜であり、そのくせ適当に狡猾でもあるのが南予準海洋人の性格であるとされる。第三者からすれば突調子もないことを言ったりしたりする者はトッポサクと呼ばれ、いくぶんかの軽蔑忌避の念をもって遇されかねぬが、トッポ話はおのれを愚にして他をもてなす謙譲の技法なのである。粒々辛苦の果てに生み出した奇想天外な主題を巧みに構成して効果的に語るのがトッポ話である。それは一つの技芸であり、文学であり、かねてまた人を愛し遇する技術でもある。宇和海の潮風と太陽が生み出した人間の話術である。
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