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大黒さま白ねずみ についてのコメント&レビュー投稿
昔々、下野(しもつけ)の国のある所に、それは仲の良い爺さまと婆さまが住んでいた。2人はたいそう信心深く、朝な夕なに必ず畑の側の大黒さまに手を合わせていた。 ところが、もう...…全文を見る

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以下参照(以下のコメントに対して返信しようとしています)
大黒さま白ねずみ は奈良時代ごろ。
投稿者: マルコ 投稿日時: 2013/12/23 16:50

このお話はおそらく、奈良時代ごろのお話だと思います。

このお話に登場する勝道上人は
735年(天平7年)4月21日 - 817年(弘仁8年)3月1日 生まれ
幼名 藤糸丸
名 俗名:若田
尊称 勝道上人
生地 下野国南高岡(現・栃木県真岡市)
没地 栃木県日光市
寺院 紫雲立寺(四本龍寺)
師 如意僧都
弟子 尊鎮法師
っていう方らしいですから。

エピソード

 勝道上人は俗姓若田(わかた)氏、下野国(しもつけのくに)(栃木県)に生まれ、幼名藤糸丸(ふじいとまる)を名乗りました。上人の両親は長く子に恵まれず出流(いずる)の千手観音に祈願したころ、結願(けちがん)の夜、夢の中で白蛇がくわえた金鉢の中に藤糸で十文字に巻かれた白玉を授かり、上人が誕生しました。藤糸丸の名の由来です。

 上人は幼少の頃より仏堂・石塔を造って遊ぶなど他の子供と異なる様子から「やがて世のため人に尽くす僧となろう」という周囲の期待通り、7歳の時、明星天使(みょうじょうてんし)のお告げを受けてより一心に仏道に励みます。

 20歳には一人岩窟で3年の修行をおこない、その後大剱峰(おおつるぎがみね)に3年を過ごし、27歳で鑑真和上(がんじんわじょう)の弟子、如宝僧都(にょほうそうづ)のもとで沙弥(しゃみ=僧)となります。共に沙弥となった従兄弟の道珍(どうちん)、教旻(きょうびん)と共に大剱峰北麓に「宿(しゅく)」を結んで修行を重ね、五色の雲が誘(いざな)うとおりに険峻を経ると日光山麓の一大河大谷川(だいやがわ)にたどり着きます。上人32歳のことです。

 天平神護(てんぴょうじんご)2年(766)明星天使の導きで山菅(やますげ)の蛇橋(現在の神橋(しんきょう))をもって大谷の激流を渡り、北岸に草庵を結んだ上人が、東方に紫雲が立ち登るをみてその地に仏堂を建てたのが四本龍寺であり、日光山の開創です。

 その後33歳で二荒山(男体山)の山頂を極めようと欲し、女峰権現(にょほうごんげん)を勧請(かんじょう)、太郎山頂に慈眼太郎明神(じげんたろうみょうじん)を奉祀(ほうし)しますが、厳しい自然に阻(はば)まれ登頂は果たせませんでした。

 天応2年(782)14年来の望みであった男体山登頂をようやく達成、真言宗祖である弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)に「沙門勝道歴山水瑩玄珠碑(しゃもんしょうどうさんすいをへげんじゅをみがくのひ)」(『生霊集(しょうりょうしゅう)』所収)として賞賛されます。

 男体山頂を極めた上人は、中腹の湖畔(中禅寺湖(ちゅうぜんじこ))に時を過ごし伽藍(がらん)を建立、自然の立木のまま千手観音(中禅寺立木観音(たちきかんのん))を手刻して安置しました。(もとは湖北岸二荒山神社(ふたらさんじんしゃ)中宮祠(ちゅうぐうし)の側に在った中禅寺は、明治35年(1902)の暴風雨に伴う山崩れで崩壊し、現在の位置に移動しました。)

 その後上人は82歳で中禅寺に至り、男体山頂に男体山三社大権現(さんしゃだいごんげん)(日光三社大権現(にっこうさんじゃだいごんげん)の起源)を勧請して、翌年3月1日に入滅(にゅうめつ)されました。開山堂背後の墓塔が上人の離怖畏所(りふいしょ)であり、その他中禅寺湖上の上野島(こうずけじま)に首骨を納め、湖畔菖蒲浜(しょうぶがはま)近く瑠璃壺(るりがつぼ)にご遺骨を納めると伝えられています。

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