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天のはしご天の橋立 についてのコメント&レビュー投稿
平安時代の話。 和泉式部(いずみしきぶ)は夫とともに丹後の国に赴任していた。そのころ宮中では歌会が開かれており、不在の母、和泉式部に代わって娘の小式部内侍(こしきぶない...…全文を見る

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以下参照(以下のコメントに対して返信しようとしています)
あ!!昔ばなしが教科書に載ってた11。「天のはしご天の橋立」
投稿者: マルコ 投稿日時: 2013/6/15 19:36

マルコはこのお話を見て、「これって古典の教科書に載っていた十訓抄の中の小式部内侍の話じゃないか!!」と思いましたね!! 
ちなみに、「十訓抄(じつきんせう)(ジッキンショウ)」の作者は六波羅ニ﨟左衛門(ろくはらにろうざえもん)です。鎌倉時代中期の説話集で、十の教訓の説話を集めているそうです。

小式部内侍の母は当時の有名な歌人であった和泉式部。「和泉式部日記」の作者としても、数々の男性との恋多き女性として知られていますね。

あらざらむ この世の外の 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな

この和歌を知っている方も多いのでは?

当時、小式部内侍が歌が上手なのは、この母親の代作ではないかと疑われることもあったようです。
それでは、十訓抄の中の小式部内侍の話をお話しましょう・・・。

平安中期のことです。 和泉式部が藤原保昌の妻として丹後に下っていたころ、 京で歌合せがありました。 歌合せには和泉式部の娘の小式部内侍が選ばれて、出席しました。 中納言藤原定頼が小式部内侍の部屋の前を通り過ぎるときに、 ふざけて小式部内侍に向かって言いました。
「丹後にいる母のもとへ和歌を取りに使わした人は帰って参りましたか?」
そう言って、藤原定頼はそのまま部屋の前を通り過ぎて行こうとしました。 それは、母の力を借りなければ歌合せは無理でしょう、という嫌味でした。 小式部内侍は、簾すだれより体を半分のり出して定頼の袖を引き止めて、 歌を詠みかけました。
「大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天の橋立」

大江山を超えて行く生野の道は遠い道のりですから 私は、まだ天の橋立を踏んでいません。
歌合せに、母の文(力)を借りる必要はありません という意味

定頼は、小式部内侍がこれほどの素晴らしい歌をすぐさま詠もうなどとは 予想もしていなかったので驚いてしまいました。
「これは何としたことだ。こんなことがあろうか?」
定頼は、思わず口走ってしまいました。 そして返歌をすることもできず、捕まれていた袖を引っ張りとって、 その場から逃げ去りました。 それから、小式部内侍は素晴らしい歌人だという評判が世間に広まりました。 このようなことは、出会うべくして出会った運であるが、 定頼は、想像もしていなかったことでしょう。

昔ばなしと十訓抄の中の小式部内侍の話の違いはというと、
「昔ばなしでは小式部内侍に母からの便りがあったかどうか尋ねた人は、定頼だかわからない。」
「十訓抄の中のでは帝は登場しておらず、小式部内侍に天の橋立の由来を話してはいない。」
「小式部内侍は帝から天の橋立の由来を聴いて和歌を詠んだわけではない。」

生野と行くと掛け、さらに「踏みもみず」と「文も見ず」を掛けた和歌。これを即興で詠むことで、小式部内侍は、これまでの歌が全部自分の才能であり、歌が上手なのは、母親の代作だという噂はデタラメであることをずばりと証明してみせたのです。

小式部内侍かっこいい!!でも・・・万寿2年、藤原公成の子(頼忍阿闍梨)を出産した際に20代で死去し、周囲を嘆かせたそうです。なんか悲しいですね・・・。

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